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エリシュカ&札響のオール・ドヴォジャーク・プロ2013を聴く

エリシュカが誕生日を札幌で祝うのは今年で6度目である。4月6日で82歳になった。マエストロが2008年に札響の首席客演指揮者に就任して以来、ライヴ録音とともに着実に積み重ねてきたドヴォジャークの交響曲チクルスもいよいよ大詰めの8番となる。マエストロは4番以前を習作的な作品と見做しているので、このチクルスはひとまず区切りを迎えるだろう。

私は、今年も両日聴いてきた。


札幌交響楽団 第558回 定期演奏会
~R.エリシュカ チェコ音楽シリーズvol.6~

2013年4月19日(金) 19:00~
2013年4月20日(土) 15:00~

会場:札幌コンサートホールKitara

指揮 ラドミル・エリシュカ(首席客演指揮者)

曲目:
ドヴォルジャーク
序曲「自然の王国で」
交響詩「水の精」 op.110
交響曲第8番ト長調op.88
eliska&sso201304


エリシュカの流儀は、今回もこれまでと特段変わらない。響きを引き締めて各声部を浮かびあがらせ、リズムを丹念に整えて、楽句間の連関を浮き彫りにする。聴くたびに、やはりそうかと腑に落ちつつ、本来そうだったのかと新鮮な刺激を受けることになる。しかし、6年間にも渡るチクルスの中で変わったこともある。

私はこれまでファンとして札響以外との公演も含めエリシュカを追いかけ、彼の様々な面を観てきた。

一つは、生真面目で妥協のないプロフェッショナルとしての顔。
エリシュカは、本番前にはホテルに籠って譜読みに没頭し、練習はみっちり微に入り細に入りやる。チェコ人だから、お国モノのドヴォジャークが得意で、お茶の子さいさいという訳では決してない。彼にとって本番は今も挑戦なのだ。それが若さの秘密でもあるのだろう。

一つは、チェコそして中欧の伝統を受け継ぐものとしての顔。
エリシュカは、ブルノでヤナーチェクの高弟、バカラの教えを受け、ターリヒなどの歴史的巨匠と接してきた。彼の振る音楽には、交響曲は無論、ちょっとした舞曲や行進曲などでも、古き中欧の薫りがする。こんな音楽家は今ではそう多くはあるまい。そして、過去の遺産を受け継ぐものとして後進の指導にも力を入れてきた。フルーシャ、ネトピル等、現在頭角を現しているチェコの気鋭たちも、皆、彼の教え子だ。

一つは、鋭敏な感覚のモダニストとしての顔。
エリシュカは卓越した譜読み力によりチェコの現代作曲家から絶大な信頼を受けていて、現代作品の初演を多く手がけている。また、現代曲ばかりでなく聴き慣れた作品に現代的な印象を受けることもある。当人は特別な解釈を志向している訳ではないのだが、しばしば、新鮮な表現性に驚かされるのだ。

そして今回強く感じたのは、慈愛に満ちた信仰者としての顔である。

繊細な問題だけにマエストロに宗教について詳しく尋ねたことはない。チェコはヨーロッパでも無神論者が多い国だが教会が彼のキャリアの出発点になっただけあって、確かに信仰心をもっているようだ。共産主義時代には当局から信仰について非難されたとも伺った。しかし、彼は「神よ、神よ」と言うような人ではない。また宗教的な雰囲気を意図的に演出するような音楽家でもない。しかし、ここ最近の札響との演奏は、世俗を超えた崇高さや慈愛が色濃く滲むようになった。

宗教的な響きといえば札響定期で数年前に聴いたハンス=マルティン・シュナイトをふと思い出した。あのとき、オケの響きは教会で響く聖歌のように声楽的にブレンドされ独特な色合いになっていた。シュナイトが教会音楽を得意とする敬虔なルター派信者だったということもあるのだろう。しかし、面白いことに、シュナイトは、リハーサルで口汚く団員を罵倒しまくる暴君だったそうだ。確かに、あのときは響きは美しかったが、オケはあまり鳴っていなかった。オケの個性を磨り潰して自分のイメージする響きに造形するタイプなのだろう。

一方、エリシュカのアプローチは、声楽的というよりも徹底して器楽的だ。晩年のバーンスタインのように過剰なまでに思い入れを込めて粘るように歌わせるという訳でもない。ゲルハルト・ボッセがそうだったように、老いを特に意識させることなく、基本的に溌剌としたテンポを保っている。しかし、近年は以前よりふくよかで悠然とした響きになり、ヒューマンな味わいが濃くなっているように思われる。

この理由として考えられるのが、マエストロの芸の円熟は無論、札響との関係の深まりだ。オケはマエストロの意図を汲み、迷いや躊躇いがなく思い切って音を出しているのが分かる。端的に言って音量が増し、表現の幅が広くなった。マエストロの棒も細かく指示するよりもオケを信頼して任せる余裕がでてきたように思える。オケと指揮者の間には単に気心が知れているという以上に共有するものがある。それは、他のオケとの共演では感じられないものだ。そして、演奏者の間で交わされる信頼感や共感が、作品が本来もつ温かみを増幅させているようだ。エリシュカ自身も、チェコスロヴァキア時代はカルロヴィヴァリに留まり一つのオケとじっくり付き合ってきたので、そういう関係の方が力を発揮しやすいのではないだろうか。

そうした味わいは、これまでもシンフォニエッタやスターバト・マーテル、第九や「新世界」で聴かれたが、今回は特に8番、第2・3楽章で顕著に感じられた。

第2楽章は、田園的な詩情と、音響の立体感・構成感がバランスした格調の高い音楽である。不朽の名盤として名高いセル&クリーブランド響の録音でこの楽章を聴くと、独墺音楽的な性格を主にするリリシズムが感じられる。今回、エリシュカは、セルのように辛口でありながらもオケの響きを丸くまとめ、旋律を柔らかく膨らまして声楽的な感触をも引き出す。そして、小鳥の囀りのような管の瑞々しい呼応が美しいこと。このバランスが絶妙だ。

そして、美しい3楽章は名人芸の極致といえるものだった。ややもすると通俗に堕するおそれがある憂愁の旋律がなんと上品で自然なことか。慎ましやかでしみじみと噛みしめるような佇まいにドヴォジャークへの深い共感が感じられた。

そして、終楽章、首席トランペット奏者の福田善亮によりファンファーレがホールに大きな弧を描いて放たれると、音楽は祝祭的な歓喜を帯び、チクルスのフィナーレとして特別な感慨を抱かずにはいられなかった。

交響詩『水の精』も大変面白い演奏だった。ドヴォジャークの交響詩はヤナーチェクに大きな影響を与えているが、この『水の精』は、4曲の中でも特にヤナーチェクらしいオーケストレーションの作品のように思う。演奏もヤナーチェクっぽく、細かな音型の繰り返しを透けるように浮き立たせて、物語を雄弁に聞かせるような演奏だった。これは手持ちのどの録音とも違うタイプの語り口だ。なにより木管が音色豊かに個性的に歌っていたのが効果的だった。札響の木管はベテランの名手に加え、優秀な若い奏者の伸長も目覚ましく(フルートの高橋聖純、昨年国際コンクールで受賞されたオーボエの金子亜未に注目)、今後が益々楽しみだ。

こうして聴いてみると、ドヴォジャークの音楽には、親しみやすい歌謡性や民俗性ばかりでなく、深い宗教性が含まれていることが分かる。それはドイツの巨匠のような観念的なものではなく、日本人がお天道様を敬うように、崇高さを畏れる素朴な感覚によるもののように思われる。それは、ドヴォジャークの音楽が我々の心に強く訴える理由の一つでもあるのだろう。そして、その宗教性はエリシュカの人間性とも呼応し、音楽的な味わいになっているのだろう。ドヴォジャークの、そしてエリシュカの生真面目さは、プロ意識とともに多分に宗教的な信条に基づいているように思われる。

マエストロは、このチクルスを始めるにあたり「もし神様がお許し下さるのなら、ドヴォジャークの5番から9番までを札響と録音して残したい」と述べていたそうである。共産圏時代、国外に出られる指揮者はノイマン等、ごく少数に限られており、マエストロは国内の名声に比して録音の機会に恵まれなかった(ただし、現代曲の録音はあった。現在、それらは全て廃盤になっている。)。そして、1989年のビロード革命後にチェコ音楽界を席巻したグローバリズムの中、不遇だったマエストロにとり、老境を迎え、これまで培った芸を録音として残すことは悲願だった。それが札幌で成就した意味はきわめて大きい。

10月の定期では、首席チェロ奏者、石川祐支をソリストに迎えてチェロ協奏曲が演奏される。今から、とても楽しみだ。
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テーマ : クラシック
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