スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

書評:『カフカと“民族”音楽 』(池田あいの著)

kafka


カフカと“民族”音楽
池田 あいの (著)
水声社 3,675円

チェコに生まれたユダヤ系ドイツ人のカフカにとって、“民族”とは何を意味していたのか。激動の19世紀末プラハを舞台に、友人ブロートや作曲家ヤナーチェクとの関係を検証しつつ、“小説”と翻訳、そして“音楽”のアイデンティティを問いかける新たなる視座。

カフカ~ブロート~ヤナーチェクの連関から、チェコにおける民族と音楽と言語を論じる興味深い本だった。

ヤナーチェクが生きたのは、各々の民族が言語と文化を拠り所にナショナリズムを主張した時代だった。彼も、当時、後進的と見られていたチェコ人の存在を文化面でアピールするためチェコ語でオペラを作曲した。しかし、「小民族」の言語であるチェコ語には、ドイツ語のようなメジャー言語への翻訳抜きに国際的なアピールができないというジレンマがあった。そのため翻訳という行為自体が、政治的な意味合いを帯びずにはいられなかった。この悩みに対し、ナショナリズムの風潮の中で疎外され、自らの母語と文化に不確かな感覚を抱くユダヤ人が、その仲介の役割を果たしたというのが面白い。

外向的なブロートはシオニズム運動等で積極的に活動を展開していくが、虚弱なカフカは内向し身体的なものに興味が向く。ブロートは、イスラエルへ移住後、チェコ音楽をモデルにして国民音楽の確立を模索していたという。一方、カフカは、ユダヤ以外の要素も雑種的に取り入れたイディッシュ劇に傾倒する。

カフカの文学仲間の内では彼だけが「非音楽的」だった。しかし、彼は「音楽」に多言語的な環境でも侵されない本質的なものというような特別なイメージを抱いていて、しばしばそのような意味でこの言葉を使っていたらしい。それが晩年の短編「歌姫ヨゼフィーネ、あるいはネズミ族」に繋がっていく。カフカは奇妙なくらい謙虚な性格だったから、「音楽」について書き、言葉で誤訳することに抵抗があったのかもしれない。

カフカとブロートの間には翻訳に対する考え方にもズレがある。これについて、ブロートが作成した『イェヌーファ』の台本のドイツ語訳(※当会会報、”『イェヌーファ』のマックス・ブロート訳をめぐって”参照)に対するカフカの批判が取り上げられており、示唆に富む論だった。カフカはブロート訳が不自然で創作的であると批判していた。その一方でカフカが評価していた翻訳として、恋人だったミレナ・イェセンスカによる『火夫』のチェコ語やイディッシュ劇の俳優イツァーク・レヴィのドイツ語があげられている。カフカはブロート訳について「巨人のような Riesenmensch」と評しているが、レヴィの不完全なドイツ語の修正については「繊細な手がいる」と書いている。私は今まで、この「巨人のような」という表現が理解できなかったのだが、つまりカフカから見るとブロート訳は「繊細な手」とはかけ離れた「巨人のような」手によるもので、いささか荒っぽく強引に思えたのだろう。このようにカフカ独特の言い回しは、彼のイメージの傾向を理解しないと必要以上に謎めいたものになってしまうようだ。

著者の池田あいの氏は1977年生まれの気鋭のドイツ・オーストリア文学研究者で、有難いことに参考図書として当会出版物も掲載下さっている。「クレンペル(クレンペラー)」などと表記しているので、クラシック音楽好きではないようだが、背景となる知識について丁寧に解説されており、詳細な注釈が付されていて、私のような一般の読者にも読みやすく刺激的な論考だった。
関連記事
スポンサーサイト

テーマ : クラシック
ジャンル : 音楽

プロフィール

Pilsner

Author:Pilsner
発話旋律 "Speech Melody"
日本ヤナーチェク友の会公式サイト管理人Pilsnerのブログ
チェコ音楽を中心にした音楽雑記帳です。
The blog by the chief manager of Janáček Association Japan
http://twitter.com/#!/janacekjapan

カレンダー
05 | 2017/06 | 07
- - - - 1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 -
最新記事
カテゴリ
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

Visitors
月別アーカイブ
検索フォーム
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。