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エリシュカ&札響の第九

年末恒例の札響の第九に今年は首席客演指揮者のラドミル・エリシュカが登場した。エリシュカがベートーヴェンの交響曲を我が国で指揮するのは今回が初めてとなる。2日とも聴いてきた。


■札響の第九

12月8、9日 15:00~ 
札幌コンサートホールKitara 大ホール

指揮:ラドミル・エリシュカ
札幌交響楽団

独唱:安藤赴美子(ソプラノ)、手嶋眞佐子(メゾ・ソプラノ)、
望月哲也(テノール)、黒田博(バリトン)

合唱:札響合唱団、札幌アカデミー合唱団、札幌放送合唱団
合唱指揮:長内勲

曲目:ベートーヴェン 交響曲第9番ニ短調op.125「合唱付き」



エリシュカの作法は、今回のベートーヴェンでもこれまでと特段変わらない。響きを引き締めて各声部を浮かびあがらせ、リズムを丹念に整えて、楽句間の連関を浮き彫りにする。しかし、それにより導き出された音楽は、私の予想を大きく超えたものだった。それは第九の奥深さゆえだろう。

第1楽章冒頭のトレモロの響きから非常にクリア、それに続く第一ヴァイオリンの開始音型は短く切り上げられ、どこか古楽風である。しかし、マエストロは昨今の古楽的解釈にはむしろ否定的だ。テンポは近頃の主流のものより遅い。しかし、それはロマンティックな重厚さのためではなく、一音一音の強度を保つための必然的な設定なのだ。

第九の第1楽章は特に奇妙な音楽だ。大体、明るいのか暗いのかも分からず感情移入しにくい曲想だろう。人間を超越したものと、生々しい精神が同居している。「歓喜の歌」を目当てに来たクラシック初心者には、さぞかし難物だろう。そして繰り返しの音型がとても多く、ブルックナーの交響曲を準備した音楽といえるだろう。

エリシュカは、響きを引き締めることでその特異性を浮かび上がらせる。芯の定まったリズムが醸し出す意味合い、弦と管が質感を保ちながら呼応する妙。札響の風合いが活きていた。加えて、古楽的演奏の多くが、ストレートなフレージングでサラリと流すところも、ふっと優しく弦を膨らまして人間的に歌い、歌が引くと新たな余韻が浮かび上がる。この巧みさにより音楽の多面性が明らかになってくる。

音楽は、その場で煽りたてて盛り上げるのではなく、精密に設計されている。「あれ、ここで緩めるの」と意外に思うとそれはその先の伏線になっている。特に面白く思ったのはクレッシェンドの効果だ。エネルギーを手元に溜めながら繰り返えされるフレーズの中でゆっくりと放出し山場を作っていく。これは響きが締まっているからこそ独特の強度をもつ。

このように、エリシュカのベートーヴェンは巨匠然とした重厚さや、勢いに任せた感情とは無縁だ。作品の本来の精密さを追求した実に清澄な演奏だった。聴く方も集中力が研ぎ澄まされ、音楽が深いところまで届く心地がする。2楽章も、3楽章も同様で、極めて情報量が多く、細かく指摘するときりがないくらいだ。

そして4楽章。この楽章も聖と俗が入り混じった不思議な音楽だ。

おそらくこの日、多くの方が驚いたのはテノールのソロによる太陽賛歌"Froh, wie seine Sonnen fliegen"の部分ではなかったかと思う。エリシュカは、この作品の中でも最も俗っぽいこの部分を田舎の軍楽隊のような長閑で鄙びた響きで始める。そこでテノールは朗々と歌い上げソロの後半で猛烈に加速し、突撃する軍隊のような男声合唱が応えると怒涛の展開になる。その後、再現する「歓喜の歌」は、テンポを緩め、たっぷりと言葉を保って歌われる。普通、ここはもっと突っ込むように歓喜の爆発を示すのが常だが、このように歌われることで「歓喜の歌」は包容的な意味合いをもち、その後の崇高な部分に繋がっていく。

そして"Seid umschlungen, Millionen!"(抱擁を受けよ、諸人よ!)から続く崇高なる合唱は、柔らかな響きで、言葉をたっぷり響かせ、まるで宗教的なコラールのように響く。このことから言っても、エリシュカは、この親しみやすい「歓喜の歌」を、民衆的な人間賛歌というよりは、一段高い汎人類的な宗教曲と捉えているのだろう。私が特に感動したのは、"Ihr sturzt nieder, Millionen?"(諸人よ、ひざまずいたか)と声を潜めて歌われる前の低弦の短い間奏で、ビオラの豊かな音色には深い慰藉が滲んでいた。そして、その後の二重フーガから展開するクライマックスも、野放図な熱狂とは一線を画す厳格なもので、合唱とソリストのアンサンブルとのバランスも絶妙なものだった。

ベートーヴェンなど古典派作品の演奏については、「19世紀のロマン派的解釈の伝統により歪められてきた、よりオーセンティックな演奏を」という新即物主義の流れがあり、それを受けて学問的成果も踏まえ古楽的解釈が登場し、アーティキュレーションを際立たせる効果などで成果を上げてきた。 今のベートーヴェン演奏はほとんど古楽的解釈を意識している。

しかし、今回、エリシュカの演奏を聴き、伝統的な解釈の中にも学問的な正当性以上に作品の本質を抉るものがあり、それが19、20世紀を通して伝統芸として、きちんと受け継がれてきているのだとつくづく感じた。そして、それは現在の古楽的解釈とも無縁ではない。エリシュカのベートーヴェンの表現性を聴いて、まず思い浮かべたのはアーノンクールだった。アーノンクールも突き詰めるタイプの音楽家だが、方法は違っても通じるものはあるのだろう。

昔の東独の演奏のようだねと評した方もいた。例えば、フランツ・コンヴィチュニーがライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を振っていたような。こういう解釈は、一朝一夕で成し遂げられるものではない。きわめて精巧な伝統芸だ。そして、それは21世紀からは消えつつあるものなのかもしれない。札幌でそういう演奏に触れられた幸せを噛みしめた。

オケは、指揮者の厳しい要求に集中力をもってよく応えたと思う。これは、エリシュカと札響との良好な関係に支えられた自発性による部分が大きいと思う。よく訓練された合唱は、発音が明確で節度があり、独唱者は一様に極めて高い水準の実力者で、ソロばかりでなく重唱の部分でも充実したアンサンブルを聴かせていたと思う。

まだまだ、書きたいことは沢山あるが、どうもキリがない。それに胸が一杯なところもある。とにかく一生忘れえない第九を聴いたことだけは確かである。

札響の第九

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