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ブロートによるヤナーチェクの死亡記事

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チェコ出身のユダヤ系作家、マックス・ブロートによるヤナーチェクの死亡記事が楽譜出版社ウニフェルザル・エディツィオン(Universal Edition)のページに掲載されたので訳してみた。原文は1928年にMusikblatter des Anbruch(「夜明けの楽譜」誌)に掲載されたものである。

ブロートは、ヤナーチェクのオペラの台本をチェコ語から独語に翻訳し、この作曲家の国際的評価に貢献した。カフカの親しい友人で、カフカから未発表原稿を託され、彼の死後、その遺志に反して公開したことでも知られる。シンフォニエッタがブームになるのも、カフカの主要な作品が読めるのも、ブロートのおかげとも言える。

以下は英語からの重訳で、文学的で訳しにくいところは適当に意訳している。最後には『利口な女狐の物語』のラストシーンから森番の台詞が引用されているため、ブロートの文章ではなく当会の訳によった。

***

ヤナーチェクが亡くなった。偉大な作曲家は74才だったが、創作力は絶頂にあった。彼は弦楽四重奏曲 「ないしょの手紙」と歌劇『死者の家から』(彼自身が書いた台本はドストエフスキーの小説に基づいている)を書き終えたばかりだった。

最晩年の彼は驚くほど多作で、健康状態は良好だった。知人は、彼が白い夏服を着て、快活、壮健にブルノを闊歩する様子を見かけていた。彼の故郷フクワルディでかかった病は、彼を突然に不意討ちしたに違いない。彼の活力、生への欲望は、近頃益々高まっており(彼は魂にあらゆる優しさを備えた、常に純粋な人だった)、私がそれに驚嘆するすぐ前に発現したのだった。私は彼に『マクロプロスの秘事』についていくつかの修正を助言をした。私は、ヒロインが「今、私は死を感じるようになった。 でも、全然怖くなかった」というべきと意見した。ヤナーチェクは私に噛み付いた。「無理だ。そんな作曲はできない。死が全然怖くないだって?」。散々議論した後、私たちは次のように合意した。「でも、そんなに怖くはなかった」

巨匠の並外れた創作は遅くにはじまった。これは彼の困難な青年期と、彼の芸術的価値の芽に立ち塞がる比類のない妨害のためだった。ヤナーチェクの最初のオペラ、『シャールカ』は、台本作家のゼイエルがヤナーチェクに許可することを拒んだため演奏されなかった。ヤナーチェクの第二のオペラ『イェヌーファ』、この最も情熱的で優しい旋律、その作りものでない真実味があり、率直で、全く型にはまらない旋律に対する比類なき努力は、歌劇場が切望すべきものにもかかわらず、めったに得難いものだった。にもかかわらず、ヤナーチェクはチェコ(※訳注:イェヌーファのプラハ初演時はチェコスロヴァキア建国前。英訳のミス)の主要な歌劇場であるプラハ国民劇場で演奏されるのを62歳になるまで待たなければならなかった。それまで彼はブルノに住んでいたが、その12年前にその地の劇場で初演されて以来、実際には観ることができなかった。全く新しい手法を用いてベズルチの詩に作曲した男声合唱曲(※3部作『ハルファル先生』、『マリチカ・ マグドーノヴァ』、『7万』)のみがいくらかの評判を呼んだにすぎない。これらの合唱曲は、今日でもドイツ語圏の国々で驚き混じりの評判を呼んでいる。ヤナーチェクの世界的な名声は、ベルリンでシリングスがエーリッヒ・クライバーの指揮の下、『イェヌーファ』の印象的なプロダクションを始めたときから不動のものとなった。

海外公演が大成功し、ヤナーチェクが70歳の誕生日を迎えるまで、チェコ国内の多くの批評家の意見は、反対か完全な黙殺だった。彼らの見解は何十年もヤナーチェクの生活を不快なものにし、小さな派閥の認識は小競り合いの種になった。ヤナーチェクの『イェヌーファ』が最初にドイツ語公演されたのは戦時中(※第一次世界大戦)のウィーンのことで、ベルリンでの勝利の数年前だったが、十分な印象は与えられなかった。しかし、いまや『イェヌーファ』は、50あまりの大中規模の劇場のレパートリーとなった。ニューヨークでも上演され、ロンドンではヤナーチェク音楽祭(オペラ上演はなかった)が開催された。国際音楽祭が彼の作品を演目に取り上げ、彼の晩年のオーケストラ作品の一つである『シンフォニエッタ』の演奏が準備されている。これはクレンペラーがベルリンでヤナーチェクの音楽を演奏し大成功を収めた後、2度目の外国演奏旅行で取り上げるものだ。

私は『イェヌーファ』がプラハでチェコ語上演されたことについてヴェルトビューネ誌(その時はまだシャウビューネと呼ばれていた)に熱烈な記事を書いた数カ月後(これがドイツ語の新聞が彼について言及した最初だった)、ヤナーチェクと会った。ハンサムな年配の男が私のアパートの部屋に朝早く着いたのだ。私は彼とは面識がなかったが、その気高く、穏やかながら力強く、目立った風貌に感銘を受けた。彼は言った。「いまや君は私を国外で有名にしてくれたのだから、私の作品を翻訳しなければならない。」

我々は友人となり、それは芸術上のことに留まらなかった。私はヤナーチェクと共に働き、テキストを整えた。それには手強い作曲家がいつも容易に応じたわけではなかったが、常に想像力に火をつける体験だった。

私が最後にブルノの彼を訪ねた時、彼は作曲中だった『死者の家から』のスコアを見せてくれた。ヤナーチェクのスコアは他に類を見ないものだ。彼は五線譜を使わないのだ。「このような譜線は皆、私に音符を多く書かせすぎるのだ」と彼は説明した。彼はまっさらの紙に譜線を描き、例えばまずバスーンが演奏する音符の玉だけ描き、そして1センチの音符の旗を書いていく。シートの残りの部分にはファゴットが奏する残りの部分のための譜線がない。ある楽器が実際に演奏している部分の楽譜しかなく、このようにして "繋ぎとなる声部"のメカニズムを排除する。非常に無駄なく透徹したオーケストレーションは、このような方法で書き留めることによっているのだ。ヤナーチェクの楽譜は洗練されたモザイク作品に似ている。

『死者の家から』手稿譜
※『死者の家から』の手稿譜


彼の人生と芸術ほど真似しようがないものはない。ヤナーチェクが亡くなった時、きわめて稀有な人が逝ったと思った。悪魔がいるのかと信じるほどだ。彼は何を為し、何を為さなかったのか。彼自身の個性以外、いかなる法も彼を支配しなかった。彼の音楽が彼のイデオロギーだった。それらは、もし魅了されないなら、全く近づきがたいものだ。もちろん、それらは彼自身の法で美しい海原へ誘いこみ魔法をかけて魅了する。そこに、ぐずぐず慎重にアプローチすることなど絶対的に禁じられ、不可能なのだ。

同じことは、比類なき『イェヌーファ』に続く美しい創造物である『利口な女狐の物語』にも当てはまる。私はしばしば台本が奇妙で上演困難に聴こえた。なぜなら登場する動物たちは動物らしく演じる必要があり、音楽は馴染みにくく、演奏しにくいからだ。だが、ああ、これらはなんと愚かな反対意見だろう。これは森自体が舞台の中心にある。このドラマは唯一の主役により作られている。それは荒々しい自然自体だ。だが、それに対する反応は旧来の体験に基づいた小うるさい批評ばかりである。

この途轍もなく大胆な冒険を取り上げよう。下草や虫たちの鳴き声、太陽やゲロゲロ鳴くカエル、夜行性の動物たちの乱痴気騒ぎ、偉大なるクヌート・ハムスン(※ノルウェーの小説家。『土の恵み』でノーベル受賞)のような屋外の結婚式。このようなものから陶酔的な力を与える。そして、ひと押しで、全体のプロットは明らかに開放的になる。森番(この作品で変わらずに登場する人物)はいつも何かに憧れている者だが、これは自然への憧憬だろうか?彼は家と家族を持っているが、森は彼に手招きする。そこで彼は野生のジプシーの少女と恋に落ちるように自由を見出し、彼自身の愛らしい小狐を捕まえるのだ。

どちらの襲撃も(※1幕の初めに女狐を捕えることも、終幕で捕えようとすることも)彼の狩人魂にとっては同一のものだ。そんなに解釈は要らない。そして、それはどんな憧憬とも同様に、彼には苦いうちに終る。ジプシーの娘は野営を引き払い、放浪者とともに消えていく。狐は逃げると射殺されるが、彼女を撃ったのは、森番ではなく、彼から娘(※テリンカ)を奪ったのと同じ放浪者(※ハラシタ)だ。しかし、永遠に憧れる人の心は、森の生命に永遠性に安らぎを見出し傷つくことはない。

ブルノ劇場の音楽監督であるフランティシェク・ノイマン(※ヴァーツラフは英訳のミス)には、真に共感に満ちた素晴らしいアイデアがあった。ヤナーチェクの葬儀で『利口な女狐の物語』から最後の歌唱(※森番の歌唱。chorusは英訳のミス)を演奏したのだ。これは、死すべき人間が永遠の高みへと上昇し、生命の永遠の賛歌として無比のうねりをもって作曲したものだ。なんというレクイエムだろう。音が劇場からロビーまで吹き抜けると、巻き起こった拍手が、死者が横たわるブロンズの棺を洗った。この作曲者が、このような音楽を二度と聴くことがないとは信じられなかった(少なくとも肉体があるうちは)。その音楽は、その実に真理と奥深さを備え、親しみ易いが、その親しみ易さをから飛躍するかのような崇高さがあった。

花輪やリボン、棺台、儀仗兵、会葬者、ろうそくの光を目にし、オーケストラとソリストが次のように奏するのを聴いて、誰しも生と死が表裏一体なのを心に留めただろう。

”でもいいさ,夕闇が迫り落日が最後の光を放つ時・・・
森の美しさを何にたとえよう!
森の精たちがまた夏の住処に戻ってきて,
薄い衣をまとって走ってくると,
五月と愛がまた彼女らのもとにやってくる!
互いに相手を迎えながら,再会の喜びにむせぶ!
また甘い露にのせて幸せを運ぶ,百千(ももち)の花,
サクラソウ,レニンソウ,アネモネの花の中に,
そして人は頭を垂れて歩み
超自然の至福がかたわらを過ぎて行くのがわかる。”



※ヤナーチェクの葬儀では『利口な女狐の物語』の最後のシーンが演奏された。

これは天才が自らに贈った追悼の辞だ。requiem aeternam(永遠の安息を)は、同様にaeternam vitam(永遠の生命を)でもある。


※余談。マックス・ブロートは、玄人はだしのアマチュア・ピアニストで、友人のアマチュア・ヴァイオニストとデュオを楽しんでいた。その友人とはアルベルト・アインシュタイン。アインシュタインは、1910年から2年間、プラハ大学の教授だった。
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