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ヤナーチェク「十字軍」としてのオットー・クレンペラー(2)

●ベルリン・クロル歌劇場時代(1927-1931)

Kroll_Opera_House
クロル歌劇場 1930年

第一次大戦末期の1918年、ドイツでは市民生活の悪化から左派の影響力が強くなり、11月には革命により帝政が崩壊する。この革命を指導した社会民主主義勢力は、1919年にワイマールで国民議会を開き、ワイマール憲法を制定して、ワイマール共和国が成立する。

大戦間の短いワイマール時代は、通常3つの時期に分けられる。すなわち渾沌期、安定期、そしてナチズムへの移行期である。1924年から1929年(世界恐慌の年)まで続く「安定期」において、社会主義者のレオ・ケステンベルクは、音楽界の抜本的改革と民主化を掲げ、ベルリンのウンター・デン・リンデン歌劇場の別館、クロル歌劇場でその理想を実現しようとした。そして、先進的な上演で実績をあげていたクレンペラーがその総監督に抜擢された。

1927年9月27日、クレンペラーのクロル時代はシンフォニー・コンサートで幕を明けた。そこで取り上げられたのが、ヤナーチェクの『シンフォニエッタ』だった。この演奏会にはヤナーチェクが臨席した。

ヤナーチェクはコンサートの前日に到着した。翌朝、クレンペラーはヤナーチェクに『シンフォニエッタ』をピアノで弾いて聴かせ、ヤナーチェクはクレンペラーの速すぎないテンポに満足した。コンサートに対する批評家たちの態度はあいかわらず冷ややかなものだったが、聴衆は熱狂し、ヤナーチェクは舞台上に引き出され喝采を受けた。クレンペラーは、その夜、日記に「作品が打ち勝ったのだ」と記した。

Janacek&Klemperer
ヤナーチェク(73歳)とクレンペラー(42歳) 1927年9月30日

クレンペラーのドラマトゥルク、ハンス・クリエールは次のように回想している。

ヤナーチェクは(...)この演奏会に臨席するため、ブルノからやってきた。彼は朝早く列車から降り立った。それは穏やかながらもきっぱりとした顔、天然ウェーヴのかかった白髪、深く青い目を持つ、ずんぐりとした人物だった。(...)ヤナーチェクの動作は落ち着き払い、世間の忙しなさを離れて内なる声に耳を傾ける人のように思えた。(...)わたしたちはアンハルト駅から徒歩で近くのホテルに向かったが、(...)街の喧騒をヤナーチェクは気にも留めていない様子だった。(...)午前の遅い時間、彼はゲネプロにやってきた。(...)ヤナーチェクが広大な観客席を持つクロル・オペラのがらんとした平土間席に立ち、自分の音楽に聴き入っている姿は感慨深いものがあった。彼は曲のフレーズを口ずさまんばかりになり、細心の注意を払いながら演奏を追っていたが、それになんの訂正も加えなかった。ヤナーチェクが褒めたのは、クレンペラーの手で浮き彫りにされる音楽構造の透明さ、そしてトランペットを十二本も使うために陥りがちなデモーニッシュな誇張を排し、仰々しい音響を退けたことだった。(...)その晩の『シンフォニエッタ』の演奏は筆舌に尽くしがたいほどの拍手を引き起こした。それをヤナーチェクは自然体極まりない態度で受けとった。オーケストラの真ん中に立ち、クレンペラーと手に手を取りながらである。彼は自分より六歳年下のマーラーも属する音楽世代の代表格だった。(...)翌日、ヤナーチェクはドストエフスキーの(...)『死の家の記録』を原作にした新作オペラを作曲していると話してくれた。(...)完成の見込みはいつ頃でしょうかと尋ねたところ、ヤナーチェクは答えを避け、こういう仕事は自然なプロセスで、終着は見えないものです(...)と言っていた。(...)9ヶ月後、ヤナーチェクが突然亡くなってしまった。それでもクロル・オペラの演目予定を立てるとき、あのドストエフスキーのオペラを上演したという気持ちはもう消し去りがたいものになっていた。
(ヴァイスヴァイラー著、 明石政紀訳「オットー・クレンペラ―あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生」、p167)


この訪問の際、ヤナーチェクは、クレンペラーにモスクワ旅行における『シンフォニエッタ』の演奏と、クロル歌劇場における『マクロプロスの秘事』の上演を認めた。これは正式な契約ではなかったが、ヤナーチェクはカミラに次のように書き送っている。

親愛なる魂よ
私のささやかな作品が聴けて嬉しかった。私はモスクワでの演奏と最新作のオペラの契約書にサインしたよ。君を思っている。金曜の明日ここを発つ。日曜には一緒にいられるだろう。
君のL
(ヤナーチェクからカミラに宛てた1927年9月29日付の手紙)


『マクロプロスの秘事』の上演は、結局、クロル歌劇場では実現せず(※10)、1929年2月14日にフランクフルト歌劇場においてヨーゼフ・クリップスの指揮でドイツ初演された。

※10 イアン・ホースブルク著『ヤナーチェク 人と作品』(泰流社、絶版)には、1928年にクレンペラーがクロル歌劇場で『マクロプロスの秘事』を上演したとあるが誤りである。

また、ハンス・クリエールの回想のとおり、クレンペラーは、当時作曲中だった『死者の家から』にも強い関心を示していた。これについてヤナーチェクは「彼らは私を説得したが、私には舞台が小さすぎるように思えた。」と9月29日付けの日記に書き残している。そしてヤナーチェクは、彼の楽譜出版者であるエミル・ヘルツカに対して内々にクレンペラーの下で上演したい意向を伝え、「私の考えだと、(クレンペラーは、ウンターリンデン劇場の中で)最も才能ある指揮者の一人だ。」と書き送っている。一方、クレンペラーは、出版社の態度が曖昧なのにしびれを切らし、10月11日付けでヤナーチェクに、この問題を後押しする気がないのかとただし、「私にとり芸術的に最重要な作品だからこそ、 悪趣味なスターシステムを排そうとしている我々の劇場でなければ、この種の作品を適切な状態で上演できないだろうと信じています。」と書き送っている。このシーズン中にクレンペラーは少なくとも2度ヤナーチェクへ手紙を書いており、1928年5月21日付の手紙では「私がこの作品をベルリンで指揮できることを心より願っています」と書送っている。しかし、その3ヶ月後の8月12日にヤナーチェクは亡くなってしまう。

クロル歌劇場では、クレンペラーの下で、旧来のレパートリーに斬新な演出(例えば、『フィデリオ』『さまよえるオランダ人』『フィガロの結婚』等)が試みられ、先進的な同時代の作品(例えば、ヒンデミット『カルディアック』、シェーンベルク『期待』『幸福な手』、ストラヴィンスキー『エディプス王』『兵士の物語』等)が取り上げられた。これはベルリンの音楽界に大きな刺激を与えたが、同時に強い反発も招いた。

特に物議を醸したのは1929年1月に上演されたワーグナーの1843年初演版『さまよえるオランダ人』だった。クレンペラーの解釈とフェーリングの演出はセンセーショナルな成功を収める一方、保守的な民族主義者の憎悪を招き、脅迫や妨害も相次いだ。

1929年10月27日に世界大恐慌が起こると、3ヶ月後の1930年1月7日、ドイツ国家人民党とナチスはプロイセン州立議会にクロル歌劇場の閉鎖動議を提出した。そして同年9月には選挙でナチスが大躍進し第2党になる。11月、ついに州政府はクロル歌劇場の閉鎖を決定した。

クロル歌劇場における最後の新演出公演として、『死者の家から』が1931年5月29日に予定された。クレンペラーは、前述のとおり、この作品に強く執着していたが、陰惨な作品で終えるのを嫌って、4月27日、南米に旅立ってしまう。

ハンス・クリエールは次のように回想している。

「クレンペラーが言うには。「『死の家』なんか最後にやっちゃいけない。最後は『ばらの騎士』で楽しく閉めてくれ」ということだったんです。ところがそれをわたしには直接言わずティーティエンに言ってきたんです。口の軽いティーティエン(※11)はその数分後にわたしに電話をかけてよこし、「あののっぽが今出発したところですよ。あの男、なんて言ったと思います?」と話してくれました。(...)クレンペラーは旅に出てしまったんです。リスボンから南アメリカに船で行ってしまったんです。深夜三時にうちに電話がかかってきましてね。電話の主はクレンペラーでした。「さようならを言いたかっただけなんですよ。数時間後には南米へ発つんでね。でも『死の家』はやめて(これはもう準備中だったんですよ)、『ばらの騎士』をやらなくちゃ駄目です」。そこでわたしはこう言ってやったんです。「だったら戻ってきて『ばらの騎士』を指揮してくださいよ。でなければそんなことはできませんね。それなら『死の家』をやります。なにしろこの劇場は死の家ですからね。それが締めなんです。
(ヴァイスヴァイラー著、 明石政紀訳「オットー・クレンペラ―あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生」、p189)


※11 筆者注。クロル歌劇場の最高責任者ハインツ・ティーティエン

結局、『死者の家から』は、フリッツ・ツヴァイクの指揮で予定通り上演された(※12)。その日、クレンペラーは、ブエノスアイレスにいた。収容所のセットは、クレンペラーの目論見通りのもので、その強烈な印象はこれまでどおり賛否両論あるものだった。

※12 『死者の家から』の国外初演は、この公演ではなく1930年12月14日のマンハイム国立劇場だった。NHK交響楽団の基礎を築いたことで知られるヨーゼフ・ローゼンシュトックが指揮をした。ローゼンシュトックもユダヤ系で、同時代の音楽を積極的に演奏した。

こうしてワイマール文化の精華であるクロル歌劇場は幕を閉じた。まさにクロル時代はヤナーチェクに始まりヤナーチェクに終わったのだった。

klemper
クレンペラーの墓(スイス、チューリヒ南部)
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