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書評:『チェコ革命 1848年』(ペフ 著、 山下貞雄訳)

チェコの歴史と文化を知る上で大変参考になる本を読んだ。

チェコ革命
チェコ革命 1848年
スタンレイ・Z. ペフ 著、 山下 貞雄 訳 牧歌舎
http://www.amazon.co.jp/チェコ革命-1848年-スタンレイ・Z-ペフ/dp/4434156810

1848年、パリの二月革命が国王の退位と共和制の宣言により成功すると、革命は翌月以降、欧州各地に飛び火し三月革命となった。多民族国家であるハプスブルク・オーストリア帝国は、1814年のウィーン会議以来、宰相メッテルニヒの保守反動的な締め付けにより体制を維持してきたが、この「ウィーン体制」は革命により終わりを告げる。それは「諸国民の春」となるはずだったが、自由主義的な立憲政治への流れは1年足らずで封じられ失敗に終わってしまう。

本書は、チェコにおける経緯を詳述したもので、当時の複雑な政治状況におけるチェコ人の微妙な立場や、地域間の意識差、他民族との関係を知ることができて大変興味深いものだ。

1620年の「白山の戦い」での大敗以来、長く虐げられていたチェコ人の民族意識は19世紀初頭から高まり、いわゆる「民族覚醒」が起こる。その中でチェコ人の社会意識が芽生え民族運動になっていく。これは厳しい政治統制があったウィーン体制下で、しばしば文化運動を装わなければならなかった。国民楽派が育ったのもそのような土壌からだ。

18世紀の合理主義は学問的な刺激となり、19世紀初めのロマン主義は過去の栄光への郷愁を生んだ。西欧の平等主義と民主主義の理念、そして東欧のスラヴ諸民族の民族的類縁関係の自覚によって更に強く煽られた。(P17)

チェコ人はボヘミアの人口の過半数を占めていたが、自分たちの運命を司ることはできなかった。人智の及ぶ範囲でいくら努力しても、彼らの運命はドイツ人の手に握られていた。チェコ人は、そのすべての階級が、ウィーンのゲルマン的中央集権主義とその手段、すなわちボヘミアやモラヴィアにおけるドイツ的官僚機構に支配されていた。チェコ人農民はドイツ人領主に支配されていた。チェコ人労働者はドイツ人あるいはドイツ系ユダヤ人の起業家のために働いていた。チェコ人のカトリック教はドイツ・カトリックの聖職階級制度に指導された。チェコ人職人や小実業家はドイツ人大ブルジョワジーとドイツ資本に依存していた。(P15)


ウィーンで3月革命が起こりメッテルニヒが失脚すると、プラハでも国民による内閣と議会の設立を要望する委員会が開かれる。この委員会は、当初、ドイツ人とチェコ人の混成だったが、民族間の平等を謳うようになると、既得権益を失うことを恐れたドイツ人が離脱し、チェコ人の民族運動組織へと変質する。一方、ドイツ人は自由主義的な統一ドイツを目指し、チェコ人への支配を保ったまま統一ドイツへ取り込もうとするが、当然ながらチェコ人はそれに激しく反発する。

そこでチェコ人の政治的な立場は奇妙に捻れたものとなってしまう。弱小民族は帝国に自由を求める一方、ドイツ人に支配されることを恐れて帝国と協調せざるえない。この「オーストリア・スラヴ主義」のジレンマは様々な局面で矛盾と衝突を引き起こし、意識の相違から内部分裂の危機を生む。

6月には一部の急進的なプラハ市民がバリケード戦を始める。しかし、この「6月蜂起」は反動派の軍人ヴィンディシュグレーツ将軍に制圧されてしまう。

夏を過ぎる頃、革命が退潮となった機をみて帝国政府は分離主義に悩まされていたハンガリーへクロアチア軍を差し向ける。10月には、それに反発したウィーンの急進派が戦争相を惨殺する事件が起き、皇帝フェルディナンドはウィーンから逃亡する。

ハンガリー国内でマジャール人は、ドイツ人と同様、スロヴァキア人などのスラヴ民族に対し支配力をふるっていた。このため、チェコ人は、この事件を、スラヴ人であるクロアチアがマジャール人支配からスラヴ同胞を救援したと見た。一方、ドイツ人は、これを帝国の反動勢力が自由主義者を制圧したと見て、マジャール人と連帯した。

チェコ人はスラヴ主義の立場から帝国を支持するが、それが反動勢力を助けることになり、結局は裏切られてしまう。年が明けると議会は潰され、検閲などの締め付けは再び強まる。翌年5月に無政府主義者バクーニンが背後で動き国際的な革命蜂起が謀られたが、計画の杜撰さもあって失敗し、それは帝国に治安維持の口実を与えるだけとなった。これ以後の反動の時期、6月蜂起に参加したスメタナはスウェーデンに亡命することとなる。

この複雑な構図を図解すると次のようなものになるだろう。
チェコ革命1848

この革命は失敗に終わったが、チェコ人にとっては意義深いものだった。これにより初めてチェコ人が帝国内において自他ともに認める政治勢力となったからだ。

1848年、この屈辱は終わった。その一年で、チェコの民族運動は、文化的(あるいは半政治的)運動から立派な政治運動へと変貌した。(P310)

1848年まで、殆どのドイツ人はチェコ人を政治勢力と見做していなかったし、見做す必要もなかった。今やドイツ人はチェコ人を政治的に配慮する必要に迫られた。被抑圧民族から脱却したチェコ人は、数週間で、帝国議会で決定的な影響力を獲得し、帝国政府と政略結婚をし、帝国のあらゆる政治事項を詳細に吟味検討して、自分たちの利益を導きだそうとした。とりわけこれは、あらゆる職業において、ドイツ人の特権的立場を脅かすこととなった。(P311)


この状況はドイツ人(ボヘミア・モラヴィアのドイツ人、帝国内のドイツ人、ドイツ連邦内のドイツ人)にとって実に忌々しいことだった。大部なボヘミア・モラヴィア史を著した歴史学者のパラツキーは、この時、政治家としても活躍したが、エンゲルスから「チェコ語もろくにしゃべれないドイツ人学者に他ならない」と口汚く罵られている。

ここで興味深いのが、プラハを中心とするボヘミアと、ブルノを中心とするモラヴィアの政治意識の差だ。モラヴィアはウィーンと近いこともあり、ドイツ人の影響力が強く、チェコ人の民族意識もボヘミア程高くはなかった。そのためモラヴィアのチェコ人は、ボヘミアよりドイツ側に協調する場面もみられた。

ブルノにチェコ人の牙城となるベゼダ会館ができたのは1873年とかなり遅く、ヤナーチェクは19歳だった。ヤナーチェクは20歳でプラハに出てオルガン学校の聴講生になり、翌年、校長を批判したため退学してブルノに戻り、それからはこの街を生涯の拠点とする。この短いプラハ留学期は、ボヘミアとモラヴィアの政治意識の差を痛感させる機会になったことだろう。その後、ヤナーチェクはブルノのチェコ人社会の文化的リーダーとして活躍することになる。

また、連帯を目指したスラヴ民族間でも意識に相当な差がある。一連の出来事から浮かび上がるのは正面闘争を避ける現実主義的なチェコ人の態度だ。それは一歩間違うと日和見主義になりかねないが弱者の智恵ともいえる。そうした性格は流血沙汰を避けたナチスドイツのチェコスロヴァキア併合(1939)やビロード革命(1989)にも現れているのだろう。愚直なまでに徹底抗戦の姿勢を貫き、ドイツとの協調も厭わないスラヴの隣人、ポーランド人と対照的なのが興味深い。これはチェコ人にはドイツ語が普及していた一方、ポーランド人にはドイツ語を話せる者が少なかったことによる。チェコ人はドイツ化が進んでいただけに、大国ドイツへ吸収・同化される危険に常に晒されていた。そのためかえって帝国内のスラヴ勢力として中心的な役割を果たすことができたのだろう。

19世紀後半の中欧情勢は、様々な思惑が捻れ交錯しているため非常に分かりにくく、ヤナーチェクやドヴォジャークが置かれた政治状況には今ひとつピンとこない部分もあったのだが、本書はそこに至る基点を丁寧に描いていて大変情報量の多いものだった。本業が産婦人科医である山下貞雄氏の訳も読みやすかった。
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