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ヤナーチェクからカミラヘの「ないしょの手紙」について

ショパンとサンド、シューマン、ブラームスとクララ、ワーグナーとコジマ等、作曲家の創作を刺激したミューズにまつわる逸話は多い。しかし、ヤナーチェクが老いらくの恋を捧げた38歳下の人妻カミラ・ステッスロヴァーとの関係は、作曲者自身による大量の手紙が残されていることから、ロマンティックな想像に留まらない学術的な興味を引くものだろう。カミラからヤナーチェクへの手紙は妻ズデンカの目をはばかってかほとんど残されていないが、カミラはヤナーチェクに出会った当初から手紙を保管しており、それらの英訳版はペーパーバックで手軽に読むことができる。

Intimate Letters: Leos Janacek to Kamila Stosslova
John Tyrrell(編集, 翻訳)

ヤナーチェクの手紙は創作家の想像をかきたてるのか、映像演劇等でも取り上げられている。また、ヤナーチェク自身、焦がれるような気持ちを綴った「ないしょの手紙」を弦楽四重奏曲にしている。



来月5日には、この手紙を題材にした新作の一人芝居「君を待つ」が東京で上演される。

■「君を待つ」(コトホギ第一譚)

チェコを代表する作曲家、レオシュ・ヤナーチエク(1854-1928)がミューズと呼び、晩年の11 年間に720通もの手紙を送った女性、カミラ・ステッスロヴァー。死の床にある彼女の魂がさまよい、彼との思い出を振り返る。夫、子どもを愛するカミラにとって、ヤナーチェクとの関係は何だったのか?次第にある事実が浮き彫りにされていく…。

・音楽    レオシュ・ヤナーチェク
・作/演出 /出演    広瀬 彩
・日程    2011年7月5日(火) 15:00/19:00開演(2回) 
・場所    近江楽堂 オペラシティ3階(初台駅東口徒歩1分)
・料金    3,500円(自由席)

後援 : 日本ヤナーチェク友の会


カミラはユダヤ人で、夫は古物商を営んでいた。このため、手紙は、大戦を経て数奇な運命を辿り今に残った。

カミラは、ヤナーチェクが亡くなって2年後、アドルフ・ヴァシェクの著書「ヤナーチェク博士の軌跡」に、それら一部の引用を許諾する。本が出版されるや、その内容は反響を呼び、地元紙はカミラが1000通もの手紙を所有していると書き立て、1926年のロンドン訪問の折の手紙や1927年のフランクフルトからの手紙を引用した。ヤナーチェクの妻のズデンカは大いに驚き、手紙の公開差し止めの法的手続きをとった。

作曲家の生前からの信奉者である音楽学者、ヴラデミール・ヘルフェルトは、手紙をマサリク大学のヤナーチェク資料コレクションに加えるためカミラに買取りを申し出たが拒否された。1935年、カミラが癌のため43歳で亡くなると、ヘルフェルトはカミラの夫、デヴィッド・シュテッセルと交渉したが、提示額が高すぎて話はまとまらなかった。

開戦直後の1939年、カミラとデヴィッドの長男、ルドルフ・シュテッセル(当時26歳)は、手紙を20,000クラウンの担保としてベドルジハ・ヒルシュに託した。ヘルフェルトは、手紙が売りに出されていること知り、作家権利協会の会長、カレル・ベリングに協力を依頼した。結局、同年ヒルシュは手紙を22,000クラウンでマサリク大学の哲学部に売却した。

手紙は713通あり、書簡、葉書の他、ヤナーチェクがデヴィットに送った手紙や、ヤナーチェクの妹、ヨゼファがカミラへ送った手紙も含まれる。また、カミラのアルバムや自筆譜(ブルノ、マサリク大学定礎のための合唱曲、弦楽四重奏第2番「ないしょの手紙」)も含まれていた。

マサリク大学が手紙を獲得した8日後、ヘルフェルトはチェコスロヴァキア共産党の地下組織に参加し抵抗運動を行ったかどでゲシュタポに逮捕され、ブルノのシュピルベルク城に拘禁された。彼はコレクションが不完全な状態になっていたのを獄中でも気をかけ続け、欠けている1923年の手紙を捜すようベリングに依頼していた。ヘルフェルトは1942年に一時的に釈放されたが、1944年に再逮捕され、プラハのパンクラーツ刑務所に収監され、最終的にテレジンシュタット強制収容所に移送された。そして、チェコスロヴァキア解放の直前の1945年、プラハへの帰路において発疹チフスで亡くなった。ヘルフェルトは全4巻からなる大部なヤナーチェクの評伝を書き上げるつもりだった。彼は、1938年に35歳までの生涯についての第1巻を完成しており、これがこの作曲家の最初の評伝となった。ヤナーチェクの素顔をよく知るヘルフェルトが終戦後も生き延び著作を完成していればと思うと残念でならない。

ユダヤ人だったシュテッセル家も大戦中、ナチスの迫害を受けた。デヴィットはスイスに逃れ1982年(93歳)まで生き、息子たちは非ユダヤ人と結婚してチェコスロヴァキアで生き延びたが、残りの家族は虐殺された。ピーセクのユダヤ人墓地は荒らされ、カミラの墓も破壊された。

終戦後、マサリク大学哲学部が所有していたヤナーチェク関連の資料は全てモラヴィア博物館の音楽部に移管された。ブルノにあるヘルフェルトのアパートはくまなく捜索されたが、失われた手紙は見つからなかった。

その後、1950年代にヘルフェルトの未亡人より手紙の何通かがもたらされ、1967年にはヤナーチェクの姪ヴィエラの遺産から24通が発見された。1970年には手紙や写真が数通が加えられ、1980年時点で、合計697通の手紙、葉書、カミラ宛の返信、そして32枚の空封筒が存在する。

私の手元には、モラヴィア博物館が発行した手紙のファクシミリがある。ヤナーチェクの激情が伝わってくるような筆致で、ところどころに自筆譜が添えられているのが興味深い。

letter
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