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ターリヒ「我が祖国」の歴史的ドキュメント

今年、没後50年を迎えるチェコの大指揮者、ヴァーツラフ・ターリヒ(1883-1961)は、スメタナの交響詩「我が祖国」を3度商業録音し、それらはいずれもCD化されている。

(録音年月/録音場所/レーベル)
(1)1929年9月/プラハ、トレード・ユニオン・ハウス/英HMV
  オーパス蔵
(2)1941年7月/プラハ国民劇場/独エレクトローラ
  Document スメタナBOX CD1
(3)1954年7月/ルドルフィヌム/チェコ、スプラフォン
  スプラフォン(ターリヒ・エディション)
  NAXOS

これらに加え、先日、1939年にオスロのノルウェー放送協会が収録していたという秘蔵の放送用のライヴ録音を聴くことができた。これはマニアの間では存在が囁かれていたものだが、一昨年初めてCD化されたものだという。


ターリヒ

(4)『ヴァーツラフ・ターリヒ ライヴ 1939』
ラジオ放送開始アナウンス
スメタナ:連作交響詩「わが祖国」
チェコ国歌(聴衆の合唱)
ラジオ放送終了アナウンス
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
ヴァーツラフ・ターリヒ(指揮)

録音:1939年6月5日、プラハ国民劇場、ライヴ
音源:オスロ、ノルウェー放送協会、Arkiv 781-82

ヴァーツラフ・ターリヒ、チェコ・フィルハーモニー管弦楽団について語る
録音:1936年11月10日、チェコ・ラジオ放送 音源:チェコ放送、AF 03162/1

ラジオ放送開始アナウンス
ドヴォルジャーク:スラヴ舞曲第2集 Op.72
チェコ国歌(レコード演奏)とラジオ放送終了アナウンス
チェコ・フィルハーモニー管弦楽団
ヴァーツラフ・ターリヒ(指揮)

録音:1939年6月9日、プラハ国民劇場、ライヴ
音源:オスロ、ノルウェー放送協会、Arkiv 783


1939年3月、チェコスロヴァキア共和国はヒットラーの恫喝に屈し保護領としてドイツに併合される。その年5月のプラハの春音楽週間(※「プラハの春音楽祭」は1946年発足)でターリヒが演奏した「我が祖国」は聴衆から熱狂的に迎えられ、翌月にも再演された。このライヴ録音はその時の模様である。

これは異様な熱気に包まれた歴史的ドキュメントだ。
再び亡国の民となったチェコ人の音楽に寄せる思いがターリヒの熱情的な演奏と共にヒートアップし鬼気迫るものがある。フス派の抵抗戦を描いたターボル、ブラニークが終わると割れんばかりの拍手喝采、そして客席からは自然とチェコ国歌の合唱が湧き起こる。これはまさにチェコスロヴァキア国民による「行けわが思いよ、金色の翼に乗って」だ。

このCDには詳細なライナーノートが添付されていて興味が尽きない。その要旨を以下のとおり年譜的にまとめてみた。


1883年5月28日
 モラヴィアのボヘミアのクロムニェジーシュにて生。父は音楽学校長。

1892年4月(9才)
 ピアノ三重奏曲「ドゥムキ」に感銘を受け、ドヴォジャークの信奉者となる。

1893-1903年(10-20才)
 プラハ音楽院でヴァイオリンを学ぶ。
 ※ターリヒ家は生活が苦しく学費が払えなかったため、まずヤン・マジャークのヴァイオリン・クラスに入った。マジャークはドヴォジャークにターリヒの窮状を訴え、音楽院に在籍できるようはからった。このおかげでターリヒはオタカル・シュフチークに師事し、卒業後は彼からベルリン・フィルに推薦され入団、まもなくコンサートマスターとなる。その後、ベルリン・フィルの常任指揮者、アルトゥル・ニキシュの影響を受け指揮者を志す。

1904年5月1日(21才) ドヴォジャーク没。

1914-1918年(31-35才)
 第一次世界大戦

1912-1915年(29-32才)
 ピルゼン・オペラの指揮者となる。

1917年12月12日(34才) 
 チェコ・フィルにデビュー。

1918年10月28日(35才)
 オーストリア・ハンガリー帝国からの独立によりチェコスロヴァキア建国。

1918年10月30日
 チェコ・フィルとのオール・スーク・プログラムが好評を博す。

1919年9月(36才)
 チェコ・フィルの首席指揮者・音楽監督に就任。

1919年10月27日
 建国1周年。ターリヒ、初めてチェコ・フィルで「我が祖国」を指揮。
 
1922年(39才)
 ターリヒ、チェコ・フィルを伴いウィーンへ海外公演し「我が祖国」を演奏。

1924年(41才)
 スメタナ生誕百年。国内各地で「我が祖国」を29回、記念演奏。

1925年5月11日(42才)
 チェコ・フィルの公演が初めてラジオ放送される。(プログラムに「我が祖国」を含む。)

1928年8月12日(45才)
 ヤナーチェク没。

1929年9月3~6日(46才) 
 「我が祖国」第1回目の商業録音(英HMV)

1935年(52才)
 国民劇場の音楽監督に就任。ヤナーチェクのオペラをレパートリーの中心に据えるべく尽力した。

1938年3月(55才)
 ズデーテン危機。ナチス・ドイツはズデーテン地方のドイツ人保護を口実に外交圧力を強める。

1938年9月 
 ミュンヘン会談で英国首相チェンバレンがヒットラーの領土要求を承認。チェコスロヴァキアはズデーテン割譲に応じる。

1939年3月15日(56才) 
 ドイツの強硬な外交圧力によりチェコスロヴァキアは併合されボヘミア・モラヴィア保護領となる。チェコスロヴァキア共和国崩壊。

1939年5月2~25日 
 プラハの春音楽週間。「我が祖国」で開幕、ベートーヴェンの第九で閉幕し、ターリヒは全7公演を指揮して大成功を納める。

1939年6月
 「我が祖国」のライヴ収録(オスロ、ノルウェー放送協会)
 ※プラハの春音楽週間の成功を受け、6月にプラハ国民劇場で再演されたコンサートはノルウェー放送協会により収録され、プラハ、オストラヴァ、ブルノの他、ノルウェイやフランスへも放送される。

1940年(57才)
 「我が祖国」のターボル、ブラニークが、チェコ人のナショナリズムを刺激するとして、スメタナの「チェコの歌」に差し替えさせられる。

※その後、併合の対外的イメージを損なうとして曲目の差し替えは中止された。ゲッペルスの命によりターリヒ、チェコ・フィルはベルリン、ドレスデンを訪れ「我が祖国」を演奏した(1941年2月11-12日)。

1941年7月(58才)
 「我が祖国」第2回目の商業録音(独エレクトローラ)

1945年4月4日(62才)
 終戦。エドヴァルド・ベネシュ大統領が亡命先のロンドンから帰国しチェコスロヴァキア共和国が復活。仇敵ズデニェク・ネイェドリィーが文化大臣に就任。

※ネイェドリィーについては当ブログ記事「ヤナーチェクの仇敵、ズデニェク・ネイェドリィー」を参照。

※5月12日、ターリヒはスメタナの墓(プラハのヴィシェフラット墓地)のそばで偶然ネイェドリィーと出会い、戦時中の行動を糾弾すると告げられる。

1945年5月21日
 占領に協力したかどで不当に逮捕されパンクラーツ刑務所に収監。7週間後の6月27日、ベネシュの助力により嫌疑不十分のため解放(同じ刑務所に収監されていたボヘミア・モラヴィア保護領の傀儡大統領エミール・ハーハは同日病死)。その間、彼が振るはずだったスメタナの歌劇「リブシェ」はネイェドリィー派のオタカル・イェレミアーシが代役指揮した。

1946年(63才)
 ネイェドリィー、社会保安大臣に就任

1946~1947年(63-64才)
 ほとんどの指揮活動が禁じられる。1947年12月26日に病に倒れる。彼の設立したチェコ室内管弦楽団は解散させられる。

1948年(65才)
 二月事件。無血クーデターにより共産主義政権樹立。ネイェドリィーが再び文化大臣に就任。以後、1953年2月25日のネイェドリィー退任までターリヒの公の場での音楽活動は制限される(ドヴォジャークのチェロ協奏曲やピアノ協奏曲等、録音は若干ある。)。プラハでの演奏活動が困難になったターリヒはブラチスラヴァのスロヴァキア・フィルに招聘される。この年、クーベリックが英国に亡命した。

1954年1月14日(71才)
 チェコ・フィルの首席指揮者・音楽監督に返り咲く。

1954年7月2-3日
 「我が祖国」第3回目の商業録音(チェコ、スプラフォン)

1961年3月16日(77才)
 死去

むしろ戦後の経緯の方が重く痛ましい。
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