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可哀想なドヴォジャーク

先日、朝比奈隆の評伝を読んでいたら1930年の京大オーケストラ時代について次のような記述を見つけた。

さて、朝日会館で公演を有料とする以上は、学生オーケストラと呼ばれるような域に留まっているわけにはいかない。朝比奈ら委員からは「新世界から」(ドヴォルザーク)をプログラムの一つに提出した。公演を有料とするためには通俗性が必要と考えたのである。しかし、メッテルは、「面白い曲デスガ、まじめな曲ではありマセン」と練習のたびに言う。

第二部は、メッテルがこれぞと思うプログラムである。本邦初演となるチャイコフスキーの組曲「第三番ト長調Op.55 主題と変奏」やグラズノフの組曲「中世より 前奏曲」、リムスキー=コルサコフの歌劇「ムラーダ リトアニア舞曲」だった。
中丸美繪著「オーケストラ、それは我なり」 72P)


朝比奈の師であるエマヌエル・L・メッテルはペテルブルク音楽院を出たロシア系ユダヤ人で、彼の「新世界」軽視が、よくある独墺音楽至上主義に基づくものでないことは、スラヴ作品を集めた「これぞと思うプログラム」から明らかだ。むしろ、メッテルは「新世界」などスラヴ系の名曲とは認めないと言わんばかりに凝った選曲をしているのが興味深い(正直、私はどの曲も聴いたことがない。)。

ドヴォジャークといえば、なんといっても代表作は”通俗名曲”「新世界から」である。この曲の親しみ易さと演奏効果は抜群で、「家路」とも呼ばれる2楽章の主題や4楽章の主題はクラシックに馴染みのない方にもよく知られている。

しかし、大衆的なヒットを得たゆえに背負う十字架もある。渥美清が死ぬまで「寅さん」を演じなければならなかったように、ドヴォジャークは生前から今にいたるまで「新世界」の作曲家とみなされ、かえって過小評価されているように思える。

そんなことを考えていたら、北大スラヴ研究所の研究者で当会会員でもある福田宏さんが次のような文章をNHK交響楽団の定期演奏会のために寄せられた。

進歩と退化のはざまで― ドヴォジャークの「親しみやすさ」と苦悩 ―
http://www.hfukuda.info/muzika/muzika13.htm

1875年、35歳のドヴォジャークは、オーストリア政府の国家奨学金を得た。オーケストラのヴィオラ奏者や音楽教師、教会のオルガニスト等で糊口をしのいでいた生活はこれにより安定し、ようやく作曲家生活が軌道にのることとなる。この奨学金の審査員だったブラームスはドヴォジャークを積極的に支援し、彼にライプツィヒの楽譜出版人ジムロックを紹介する。

ドヴォジャークの名声は大ヒット作「スラヴ舞曲」がもたらした。これはジムロックにとってブラームスのハンガリー舞曲のヒットを受けた柳の下のドジョウ狙いだったのだが見事に当たった。以来、ジムロックは大衆受けする小品の作曲を強く勧め、ドヴォジャークは希望に応じてせっせと作曲した。しかしジムロックにしてみればドヴォジャークは大作曲家ではなく人の良い便利な田舎者に過ぎなかった。一方、努力家であるドヴォジャークは、オペラや交響曲で成功しキャリアを発展させたかった。ドヴォジャークの不満は募り、1885年にはジムロックに対し次のように書いている。

「...あなたが最後の手紙で指示したことのすべてをもう一度よく考慮しながら、もしも私が常識をもってその内容を理解するとすれば、次のような明白な結論に達するでありましょう。すなわち、私はいかなる交響曲も、大規模な声楽作品も、また器楽曲も書く必要はないということです。そして、おそらくは歌曲やピアノ小品、あるいは舞曲だけを書くべきだということです。私はいかなるジャンルの曲が出版可能であるかを知る由もありません。何かを達成したいと願う芸術家として、私は簡単にそれを行うことができないのです。...」
内藤久子著「ドヴォルザーク」P105より)

※ジムロックとの確執は内藤久子著「ドヴォルザーク」が詳しい。

19世紀後半は音楽が大衆化して流通し、音楽ビジネスも発達した。稀代のメロディーメーカー、ドヴォジャークはこの流れにのって成功し、オーストリア帝国の一部にすぎなかった「チェコ」、そして「チェコ音楽」というジャンルの国際的な認知に貢献した。そもそもチェコの国民学派はロシア、ポーランドなどに比べると後発で、スメタナ(1824-1884)はグリンカ(1804-1857)より一世代年下だった。

20世紀初頭からチェコ国内ではスメタナ派かドヴォジャーク派かという党派対立があった。作曲家当人同士の関係は決して悪くなかったのだが、強硬なスメタナ派、ズデニェク・ネイェドリィーが主導するドヴォジャーク批判が高まり、ヤナーチェクも攻撃に晒された。この批判の根拠は、どうも分かりにくいのだが、おそらく次のようなものだったと思われる。

「偉大なるスメタナは、独墺至上主義の音楽界においてチェコの国民音楽を確立するため闘ってきた。一方、その後輩のドヴォジャークは、民謡もどきの音楽をドイツ人に売り込み、エキゾチズムに訴えて大衆的な人気を博している。楽譜出版人の求めに応じて作曲するなど芸術家の風上にもおけない。いまやドヴォジャークはスメタナに先じて国際的な名声を得て、チェコ音楽のイメージを害している。彼は無教養な田舎者にすぎないのに。」

チェコ国内に限らず、ドヴォルザークが、国民学派に共感する音楽家から必ずしも支持されなかったことは、冒頭のメッテルの言葉からもうかがえる。そして戦後はアドルノのような知識人からも批判される。アドルノにとっては大衆性などナチズムの種のようなものだったのだろう。

可哀想なドヴォジャーク。善良な努力家の彼が、楽譜出版人から軽んじられ、チェコ人から批判され、インテリからは嫌われるとは。ストレスから酒量が増えるのも無理はない。

もっともチェコ国内における異常なドヴォジャーク批判は、ネイェドリィーの強烈な個性によるところが大きかったようだ。チェコ・ドヴォジャーク協会会長であるラドミル・エリシュカ氏に、この批判の根拠を尋ねたが、どうしてこんな馬鹿なことが起こったのか本当のところはよく分からないとのこと。プラハ音楽院とカレル大学の学閥争いではと尋ねたが、それはないとのことだ。

ネイェドリィーはドヴォジャークの娘オティーリエに求愛したが拒絶され、これを根に持ちドヴォジャークを攻撃したという噂がある。真偽の程は不明だが、チェコでは有名な話らしく何人もの方からうかがった。オティーリエはドヴォジャークの弟子、ヨゼフ・スーク(同名のヴァイオリニストの祖父)に嫁ぎ、スークもネイェドリィーの批判にさらされた。異常な論争の元は案外拍子抜けするほど下らないことだったのかもしれない。

1918年、ヤナーチェクは『イェヌーファ』のウィーン宮廷歌劇場上演が実現し国際的な名声を獲得した。これはオーストリア帝国崩壊の直前、帝国内の民族的融和を演出するためウィーンでチェコ作品がかかりやすい状況だったこと、人脈の広いマックス・ブロートの働きかけが効いたことによるが、やはり先駆者ドヴォジャークの成功があってこそのことだろう。ヤナーチェクは、その5年後、独創的な前衛作曲家としても国際的に認められることとなる。

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