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ラドミル・エリシュカ物語

エリシュカCD
チェコの指揮者、ラドミル・エリシュカは、1931年4月6日、ドイツと国境を接するチェコ北東部、ズデーテン地方の小村ポドボジャニ(Podbořany)に、裁判所の事務官の一人息子として生まれた。音楽好きだった父はヴァイオリンとフルートのアマチュア奏者だった。

1933年にナチスが政権をとると、ズデーテンのチェコ系住民とドイツ系住民の間に緊張が高まっていった。1938年、ナチスは領土拡張の第一歩としてドイツ系住民の保護を口実にズデーテン地方へ侵攻し、これを併合した。このため、エリシュカ一家はチェコ中央部に逃れた。

そんな混乱もあり、彼の音楽歴は9歳から習ったヴァイオリンにより、ようやく始まった。ラドミル少年はヴァイオリンを通じドヴォジャークには早くから親しんだが、当時の音楽教師はヤナーチェクに理解がなく、「あんなのはイカれた音楽だよ」と肩をすくめて言ったという。

ギムナジウム(中高一貫校)時代、彼は初めて指揮を経験し、将来の道を意識するようになる。当時の音楽教授が優れた合唱団を組織して、時折、彼に指揮を任せてくれるようになったからだ。そして、経験を積むため教会の音楽活動にも積極的に参加した。

戦後、ソ連の圧力が強まっていたチェコスロヴァキアに、1948年2月、共産党の無血クーデターが起こり、共産主義政権が誕生する。いわゆる「2月事件」である。これにより悪名高いチェコ版ジダーノフズデニェク・ネィエドリーが文化大臣に就任し、チェコの音楽界は政治的な冬の時代を迎える。(※このとき大指揮者のヴァーツラフ・ターリヒですらポストを失った。おかげで当時プラハに滞在していたチャールズ・マッケラスは、暇ができたターリヒに師事することができた。)

ギムナジウム卒業後、エリシュカは、当初、名門のプラハ音楽アカデミー(AMU)を志望していた。しかし、教会での音楽活動が当局の不興を買ったため断念し、政治的に寛容なブルノのヤナーチェク芸術アカデミー(JAMU)に入学する。ここはヤナーチェクが設立した学校で、ヤナーチェクの高弟だったブチェティスラフ・バカラが教鞭を振るっていた。

初めの1年間は、ターリヒの下、チェコ・フィルの第二指揮者として長年活躍していたフランチシェク・ストゥプカに師事したが、彼が高齢により引退したため、その後バカラに師事した。

白髪で長身のバカラは、偉大な指揮者であるとともに、優れたピアニスト、オルガニストでもあり、温厚寛大な人柄は学生たちから尊敬を集めていた。彼はヤナーチェクから特別に信頼されていた弟子だった。ヤナーチェクは、インスピレーションのままに書き留めた手稿譜をしまいこむ癖があったので、バカラは有能な助手として、それらの管理を任され、作品の完成に重要な役割を果たした。

当時はまだ多くの人々にヤナーチェクの記憶が生きており、エリシュカも数々の強烈な逸話を耳にしたという。ヤナーチェクの作風を熟知していたバカラは、彼に貴重な教えを伝え、ヤナーチェクは彼にとって特別なレパートリーとなった。

JAMU在学時には折角「プラハの春音楽祭」へのデビューが決まりながら、サッカーで腕を折り、キャンセルしたこともあった(再当番は15年後だった)。

1955年にJAMUを卒業した後はブルノで地方オケなどを振っていたが、2年後、プラハへ移り、チェコユースシンフォニーオーケストラや合唱舞踊団、徴兵先の軍楽隊等を指揮し研鑽を積んだ。軍楽隊といってもチェコフィル奏者が参加するかなり高水準な楽団だったという。

当時、接したターリヒの実演は生涯忘れえぬものとなる。ターリヒは彼にとってアイドルだった。ターリヒが編曲したヤナーチェクの「利口な女狐」組曲に感激した彼は、楽屋に巨匠を訪ね、スコアを借りて筆写したという。

1968年、名門カルロヴィヴァリ交響楽団の首席指揮者を選出するコンクールに参加する。カルロヴィヴァリ(ドイツ語名カールスバート)は、14世紀から続く歴史のある温泉保養地で、多くの著名人が集う文化センターだった。この地に1831年に創立されたカルロヴィヴァリ交響楽団は、ドヴォジャークの「新世界交響曲」の欧州初演をしたことでも知られている。

このコンクールの審査は1年間にも及んだ。カレル・アンチェルの下で、チェコ・フィルの副指揮者を務めた名指揮者カレル・シェイナはそのときの審査員の一人で、彼に指揮法を助言した。

エリシュカは12名の候補者から勝ち抜き首席指揮者に選出された。そして、1969~1990年の21年間、首席指揮者と音楽監督を務めた。カルロヴィヴァリ交響楽団とは、1985年の「プラハの春音楽祭」に出演し、ショスタコーヴィッチ、ドヴォジャーク等の作品を演奏した。チェコフィル、プラハ交響楽団(FOK)、ブルノ国立フィルハーモニー管弦楽団、プラハ室内フィル等にもしばしば客演し、特にドヴォジャーク、ヤナーチェクといったお国ものはもちろんのことブラームスの大家としても高く評価された。

チェコ国内の名声は高く、チェコスロヴァキア文化省は、エリシュカの指揮活動に対しスメタナ・メダル (1974,1984)、ヤナーチェク・メダル (1978,1985)、モーツァルト・メダル (1987)を、カルロ・ヴィヴァリ市は、ドヴォジャーク賞(2001)を贈呈している。1979年にはチェコ作曲家・演奏家組合より特別賞を授与されている。

また、現代音楽の紹介者として広く知られ、手兵カルロヴィ・ヴァリ響とともに130あまりのチェコ現代作曲家の初演を手がけ、SupraphonやPantonから8枚あまりのLPが出ていた(現在廃盤)。プラハとピルゼンのラジオ局には多くの放送録音が残されており、いくつかの公演の模様はチェコスロヴァキアTVに収録されている。

しかし、当時、国内のエージェントが海外公演を決定していたため、ノイマンやコシュラーのように西側へ出る機会は与えられず、欧米では全く無名のままだった。もっとも共産圏へは頻繁に演奏旅行し、ドレスデン・フィル、ハレ・フィル、ザグレブ・フィル、モスクワ放送交響楽団、ロストフ・フィル等に客演し、ソ連ではハチャトリアンの知己を得て、高く評価されたという。

1989年、抑圧的な共産主義政権は「ビロード革命」により崩壊する。しかし、急速な自由化はチェコの音楽界に思わぬ余波をもたらす。チェコ国内の多くのオーケストラが指揮者をチェコ人から外国人にすげかえたのだ。社会が急変し混乱する中、オーケストラは生き残りのため西側のスポンサーに頼ろうとしたのだった。グローバリゼーションの波が押し寄せる中、エリシュカがカルロヴィヴァリ交響楽団と築いたような濃密な関係は今や過去のものとなってしまった。皮肉なことに民主化は「2月事件」以上に伝統の喪失をもたらした。

ポストを失った後、指揮者としての活動は限られたものだったが、地方オケへの客演やショパン・フェスティヴァルのオープニングコンサートの指揮等で好評を博していた。

また、1978年以来、プラハ芸術アカデミー(AMU)で指揮法を指導していたため、AMU音楽部長のヨゼフ・フッフロ(スークトリオのチェリスト)の要請に従い、1996年から指揮科教授を務め、後進の指導に注力した。現在、チェコの新進として注目を浴びているヤクプ・フルーシャ、トマーシュ・ネトピルをはじめレオシュ・スワーロフスキーやマレク・シュトリンツル等、多くの指揮者が彼に師事している。著名なヴァイオリニストのヨゼフ・スークはエリシュカについて「(音楽家としてだけでなく)素晴らしい教育者でもある」と評している。その他、チェコ・ドヴォジャーク協会の会長にも就いた。

2004年、マエストロは、初めて日本を訪れた。その後の国内オケ客演における成功や、札幌交響楽団首席客演指揮者就任初のライヴCDの発売等により評価を高めていった。マエストロは2008年に教授職を退任し、再び指揮活動を本格化する。この4月で78才になる。第二の人生の舞台は日本である。
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