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エーリヒ・クライバーとヤナーチェク~1920年代ベルリンのヤナーチェク演奏について

往年の名指揮者エーリヒ・クライバーというと、いまではむしろ天才指揮者カルロス・クライバーの父親というのが一般的な認識かもしれない。しかし、彼は戦前のベルリンで、ベルクの『ヴォツェック』等、同時代の作品を意欲的に取り上げるとともに、モーツァルト等、従来のレパートリーの演奏慣習にも一石を投じた演奏史的にも重要な巨匠だった。

先日、彼の評伝の邦訳が刊行された。

Kleiber_BOOK

エーリヒ・クライバー 信念の指揮者 その生涯
ジョン・ラッセル(著)
クラシック・ジャーナル編集部、北村みちよ、加藤晶 (翻訳)
アルファベータ
ISBN 9784871985796
価格 ¥3,360(税込)


本書は、エーリヒ・クライバーが存命中に執筆され亡くなった直後に刊行されたもので、特にシュターツオーパー時代の記述は充実している。特に興味を惹かれるのは、彼とヤナーチェク、ベルクとの関わりで、ヤナーチェク演奏史において特に重要な1924年の『イェヌーファ』上演については、かなりページを割いて記されている。

以下では、本書をベースに、エーリヒ・クライバーとヤナーチェクの関わり、とりわけ1920年代のベルリンにおけるヤナーチェク演奏について、他のヤナーチェク関連文献も参照しながらまとめてみたい。

*****

エーリヒ・クライバーというとウィーン出身の音楽家というイメージが強い。しかし、それ以上にプラハとの関わりが強い指揮者だった。

エーリヒの父フランツ・オットー・クライバーは、青年期にザクセンからプラハに移り住み、そこでチェコ人女性ヴローニ・シェプルと結婚した。彼は音楽的素養も豊かな学者であり妻を伴ってウィーンに移り住み、1890年にシューベルトが亡くなった家のすぐ向かいでエーリヒが生まれた。しかし、エーリヒが5歳の時に父は急逝し、翌年、母も後を追うように亡くなってしまう。孤児となったエーリヒは一つ上の姉とともに、プラハの母方の祖父の下に預けられる。エーリヒは、プラハに大変愛着を覚えたが、一年後、祖父が亡くなり、今度はウィーンの伯母の下に身を寄せ、そこでギムナジウムに入学する。

当時のウィーンはマーラーが宮廷歌劇場で活躍していた時期だった。彼はヴァイオリンを嗜んでいたが、苦学生だったため音楽教育を受ける余裕もなく、指揮者を志したのも遅かった。そのきっかけは、1906年、16歳の時にマーラーによる自作の交響曲第6番の演奏に接したことだった。なんとクライバーはその時から劇場付きのコレペティートル(歌手練習用の伴奏ピアニスト)として指揮者のキャリアを切り開くべく、ピアノの猛練習に励んだ。そんな彼にとってマーラーは、生涯の偶像となった。そして、このウィーン時代、彼は劇場や演奏会に精力的に通い、主要なレパートリーを吸収した。

1908年、18歳の彼はギムナジムを卒業し、ウィーンを去ってプラハに移り、プラハ大学に通いながらプラハ音楽院で学び始めた。彼は、その後、二度とウィーンに住むことはなかった。ヴィチェスラフ・ノヴァークのマスタークラスを受講し、この作曲家と親交を結ぶとともに、そこでチェコ語を完全に習得し、知人のつてで新ドイツ劇場(※1)にも出入りするようになる。彼は有能なコレペティートルとして活躍し、1911年には劇場指揮者としてデビューを果たした。

※1 現プラハ国立歌劇場(共産時代の名称:スメタナ劇場)。当時のプラハは言語によりチェコ人社会とドイツ人社会に分化しており、両者が棲み分けられていた。ドイツ劇場はドイツ人用の劇場で、プラハ国民劇場がチェコ人用だった。なお、新に対し旧のドイツ劇場は、モーツァルトのドン・ジョバンニが初演されたスタヴォフスケー劇場(ティル劇場)のこと。

1912年からはダルムシュタットの宮廷劇場に赴任し、駆け出しの指揮者としてオペレッタをよく振っていた。そしてその後、バルメン(現ヴッパータール)歌劇場、デュッセルドルフ歌劇場、マンハイム歌劇場へ移った後、1923年8月からシュターツオーパー(Staatsoper Unter den Linden、現在のベルリン州立歌劇場)の指揮者に就任した。そして、その翌年、ケーニヒ広場にあるクロル劇場がシュターツオーパーの傘下に入る。

ベルリン州立劇場1928年
シュターツオーパー(1928年)

クライバーは、自らのレパートリーに対する拘りが人一倍強く、彼の資質は特にオペラで発揮されたようだ。彼は言葉のリズムや抑揚が生み出す演劇性について特に鋭敏な感覚を持っていた。彼は子供の頃からおどけ者として有名で、他人の口調を真似て笑いをとるのを得意としていたという。そんな彼が10代の頃、ウィーンで足繁く劇場通いをしていたのをみて、彼の伯母は彼が役者を志望していると思っていたという。またダルムシュタット時代、しばしばオペレッタを振ったが、ここでも彼の強みは活かされた。ウィーン出身の音楽家はオペレッタが得意という周囲の期待があった上に、音楽的に薄っぺらい作品でも演劇的なセンスにより器用に盛り上げることができたからだ。

そんな彼が特に得意としたレパートリーは、次のようなものだった。モーツァルト『フィガロの結婚』、ウェーバー『魔弾の射手』、ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』、R.シュトラウスの『薔薇の騎士』、ヴェルディ『リゴレット』等。そして、彼は外国人による新作(ベルクの『ヴォツェック』やストラヴィンスキー『プルチネッラ』『兵士の物語』等)を積極的に取り上げた。

こうした彼の志向に合致した作品として、当時まだ斬新な作品だった『イェヌーファ』が、チェコ語が堪能だった彼のレパートリーに加わる。きっかけは、シュターツオーパーの劇場総監督で、指揮者、作曲家でもあったマックス・フォン・シリングが1922年2月にプラハでチェコ・フィルを振った際、マックス・ブロートに誘われて『イェヌーファ』を観たことだった。

『イェヌーファ』の上演が決まり練習に入ると、ヤナーチェクの個性的な作風に、幾人もの歌手が拒否反応を示し交替した。ある者は次のように不平をこぼしたという。「私は歌手として雇われていた。喜劇役者でも、朗読家などでもない。あの作曲家は人間の声というものを分かっていないし、歌手に不可能な入り-うなり声やどなり声-を示している。たぶん気がふれているのだろう。いずれにせよ、自分の作った歌が歌いやすいかどうかなんてことはちっとも気にしてはくれない。」 しかし、クライバーは、持ち前のセンスにより粘り強く歌手を導き、この作曲家独特の「発話旋律」を巧みに実現させた。この特技は後に『ヴォツェック』でも発揮されることになる。

1924年3月17日、クライバーの指揮で『イェヌーファ』がシュターツオーパーでドイツ語上演される。この公演は、ヤナーチェクも臨席していた。当時、ヤナーチェクは70歳、クライバーは34歳だった。

この上演の際の政治的トラブルについては不明だったが、クレンペラーが、ケルン歌劇場で1918年11月『イェヌーファ』を、1922年12月に『カーチャ・カバノヴァー』を上演した際に激しい抵抗にあったことを考えると、格式の高いシュターツオーパーでも相当のことがあったと推察される。結果として、この上演は優れたスタッフが結集した最高水準のものとなり大いに注目を浴びた。この公演を聴くためにベルリンを訪れたヤナーチェクは、ドレスリハーサルを観て、妻ズデンカに興奮混じりに次のように綴っている。

27年もの間、今日の『イェヌーファ』のドレスリハーサルほどのものは誰も記憶にないだろう。巨大な劇場は人がいっぱいで、ベルリン中の評論家が集まっている。歌手や指揮者、そして私へのカーテンコールがいつまでも続くのだ! これほどの出来栄えはどこにもない。全てオリジナルな民俗衣装で、それらは我が国の大使館が州立歌劇場に贈ったものだ。指揮者のクライバーは比類ない。
(ヤナーチェクからズデンカ宛 1924年3月15日)


これまでヤナーチェクは、ブルノ、プラハ、ウィーンの実演に接していたが、このベルリン公演の上演水準は格別だった。彼はクライバーに大いに感謝し、ブルノに戻るとすぐにチェコ語で礼状を書いた。

私の想いは、いまだあなたと共にいます。あなたは私の作品に至高の瞬間を与え、まばゆい陽光で満たしてくださいました。新兵募集の歌やイェヌーファの歌は、これまで堅苦しい軍隊行進曲になってしまったものです。けれども、あなたはあの歌に若々しい活力を吹き込んだのです。「若い二人はみな、苦難に耐え抜いていかなくては」はプラハでもウィーンでも葬送歌のようにされてしまいました。あなたはそれに微笑みを加えてくださった。そうあるべきなのです。

おまけにこれまで第二幕ではどれほど酷い間が取られたことでしょう! しかしあなたは古典的なやり方でそれを組み立ててくださいました。そして、ラストの愛の賛歌の畳みかけるように加速する部分は本当に情熱的で、ここに限らずフィナーレ全体を見事に盛り上げてくださいました。『イェヌーファ』は、プラハでもウィーンでもなく、あなたによって、ようやく素晴らしいものになったのです。少しだけ注文を許していただけるなら、第一幕の序奏は不安な雰囲気を漂わせるためほんの少し速めていただけませんか? それに、水車小屋の近くの舞台上にシロフォンを加えてください。その冷たい調子を和らげられるでしょうから。私のお願いはそれだけです。
(ヤナーチェクからクライバー宛 1924年3月22日)


ヤナーチェクは楽譜の出版元であるウニベルザルの社長エーミール・ヘルツカ博士にも興奮を伝え、既にシャルロッテンブルク・ドイツ歌劇場でのベルリン初演が決まっていた『カーチャ・カバノヴァー』についてもシュターツオーパーに任せるべきだと主張した。『カーチャ』は劇場総監督だったシリングの妻、バーバラ・ケンプも主役に興味を示していた(彼女は後にイェヌーファ役を歌う)。

Kleiber_Jenufa
クライバーとイェヌーファ役ジナイダ・ユルイェフスカヤを囲んでのスナップ(1924年ベルリン)

作品に対して批評家の意見は割れていたが、指揮者に対しては絶賛ばかりだった。例えばヴァルター・シュレンクは、「この見事な公演は、とりわけひとりの男による仕事だったし、我々が抱えているエーリヒ・クライバーという男が宝であることを、再び見せつけてくれた。彼がかつて無知で根拠のない非難を浴びたことを考えると、グスタフ・マーラーの時代以降、クライバーほどの創造力に近い何かをもってのし上がったドイツのオペラ指揮者は、ごく少数だったことをもう一度強調しておくべきだろう」と記している。

ベルリンでの成功を契機に『イェヌーファ』の国際的な評価は一気に高まった。ウィーン初演(1918)からこのベルリン公演までの6年間に、このオペラのドイツ語プロダクションは3件にすぎなかったが、次の6年間では少なくとも57件にものぼった。

残念ながら、その後、クライバーがベルリンでヤナーチェクを振る機会はなかった。しかし、当人には意欲があり作曲家も強く希望していた。ヤナーチェクはベルリンの成功を特に評価し、クライバーに恩義を感じていた。

1925年5月18日に『利口な女狐の物語』がプラハの国民劇場で初演された後、ヘルツカはヤナーチェクにこう書き送っている。

クライバーとシリングスは、これらが愛すべき作品でレパートリーから外す手はないと言っている。クライバーは、もし万端整ったならば、来シーズン『女狐』のドイツ初演をしたいと私に約束してくれた。もちろんドイツ語訳のスコアが夏の終わりころまでに出版されればという条件付きだが。
(ヘルツカからヤナーチェク宛 1925年4月1日)


1925年秋にはシャルロッテンブルク・ドイツ歌劇場がベルリン市立歌劇場(現ベルリン・ドイツ・オペラ Deutsche Oper Berlin)となり、ベルリンのオペラ界の新勢力としてシュターツオーパーの有力な対抗馬となる。ベルリン市立歌劇場は、音楽監督にブルノ・ワルターを迎え、ロッテ・レーマンをはじめとする錚々たる歌手が出演した。ワルターの任期中(1925-28)には、ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』やバルトークの『青髭公の城』等、意欲的な上演がなされた。1926年5月にはヤナーチェクの『カーチャ・カバノヴァー』がフリッツ・ツヴァイク指揮で上演された。これにはヤナーチェクも臨席し、その際、フランツ・シュレーカーやアーノルド・シェーンベルクと面会している。この公演にはクライバーや、マリア・イエリッツア(※ウィーン、ニューヨークでイェヌーファを歌ったソプラノ歌手)も駆け付けた。ちなみに、ツヴァイクもヤナーチェクを積極的に取り上げたドイツ人指揮者で、彼はモラヴィア出身であり、彼の妻はプラハの新ドイツ劇場のプリマドンナだった。

1927年にはシュターツオーパーの傘下にあったクロル劇場の総音楽監督にオットー・クレンペラーが就任した。彼はいち早くヤナーチェクを評価して作品の紹介に努め、それまでも『イェヌーファ』、『カーチャ・カバノヴァー』、シンフォニエッタのドイツ初演を果たしていた。9月27日、クレンペラーは顔見世公演で、ヤナーチェクのシンフォニエッタを演奏し大成功をおさめる。

クライバーが統べるシュターツオーパーはもともと宮廷劇場で、格式が高い大劇場である一方、クレンペラーのクロル劇場は実験的な小劇場だった。クライバー、クレンペラー共に、新作への意欲が強く、ヤナーチェク作品に強い関心を持っていた。このように、ベルリンの音楽界においてライバル関係にある二人が共にヤナーチェクに傾倒していたことは、彼の作品の国際的な普及に多大な影響を与えた。

また、当時のベルリンが、クライバー、クレンペラー、ワルターという、マーラーの影響を強く受けた指揮者に支配され、マーラーの革新的な精神が受け継がれていたからこそ、意欲的な上演が盛んになり、ヤナーチェクが積極的に演奏されたことも注目される点だろう。ベルリンの音楽界が保守的な黄昏の都ウィーンに対抗意識をもっていたことも、チェコの異端的な作曲家を受け入れる要因になったと思われる。

クライバーとクレンペラーは共に、ヤナーチェクの新作のドイツ初演を希望し競合していた。ヤナーチェクはクライバーを評価し特別な恩義を感じていたので『マクロプロスの秘事』は彼に任せるつもりだった。しかし、クレンペラーによるシンフォニエッタの成功を受けて、ヤナーチェクは彼に『死者の家から』を任せると請け合った。クレンペラーは『死者の家から』の上演をかねてから切望し、ヤナーチェクに再三催促していたからだ。しかし、ウニベルザルのヘルツカは、このオペラもクライバーに任せるようヤナーチェクに勧めていた。ヤナーチェクのオペラはプラハ初演が先行するため、ベルリンではドイツ語で上演されるとはいえ、チェコ語が堪能なクライバーはクレンペラーより有利だった。

クライバーは、1928年に『マクロプロスの秘事』のドイツ初演を具体的に計画していたが、バーバラ・ケンプがエミリア・マルティ役を拒絶したため上演が流れてしまう。しかし、クライバーによる詳細な注釈が書き込まれたピアノヴォーカルスコアが残っており、既に練習が進んでいたことを伺わせる。そのスコアにおいて、ブロートによる訳詞は50か所以上オリジナルに近いように訂正されており、チェコ語が堪能なクライバー自身が相当入念に準備していたようだ。

ヤナーチェクが世を去った翌年の1929年、世界恐慌が起こり社会情勢は一変、ナチスの台頭がベルリンの音楽界にも暗い影を落とす。1930年1月にドイツ国家人民党とナチスはプロイセン州立議会にクロル歌劇場の閉鎖動議を提出し、同年9月には選挙でナチスが大躍進し第2党になると、州政府は11月にクロル歌劇場の閉鎖を決定した。

1931年にクロル劇場は閉鎖され、その最終公演で『死者の家から』が上演されるが、陰惨な作品で終わりたくないと言い残しクレンペラーは南米に旅行に出てしまう(※ツヴァイクの指揮で上演は予定通り行われた)。この上演は実は8カ月前に予定されていたが、チェコで起きていたあるドイツ映画の排斥デモへの抗議を表するため延期されていた。もし予定通り上演されていればクレンペラーが振っていたことだろう。

1933年は節目の年だった。2月に国会議事堂放火事件発生し、ヒトラーが独裁体制を確立させ、ワイマール時代は終わりを告げる。フリッツ・ブッシュは、ドレスデンから侮辱を受けた上、追い出され、クレンペラーは一方的に契約解除されためスイスを経由し米国へ亡命する。ワルターも数々の嫌がらせを受けてウィーンに逃れた。

しかし、クライバーはベルリンに留まり続けた。彼はナチスの前で演奏することを厭わなかったが彼らになびくことは一切なく、それゆえに聴衆から支持され、ナチスからは睨まれた。だが、1934年11月、長年擁護してきたベルクによる「ルル交響曲」(未完に終わった同名のオペラの素材を使った交響曲)初演が禁止されるとすぐに、シュターツオーパーを辞任した。その後もゲーリング元帥が好条件を提示し強く慰留するが、「最初の演奏会でメンデルスゾーンをやらせてくれるという条件付きで」と答えたという。1935年に彼はザルツブルク音楽祭出演の後、妻と当時5歳のカルロスらを伴ってアルゼンチンに移住した。愛妻ルースがユダヤ系だったことも亡命の一因だった。


【参考文献】

ジョン ラッセル著、 北村みちよ、加藤晶、クラシックジャーナル編集部訳、『エーリヒ・クライバー 信念の指揮者、その生涯 』、アルファベータ、2013

菅原透著、『叢書・20世紀の芸術と文学 ベルリン三大歌劇場 激動の公演史【1900-1945】』、アルファベータ、2005

アレックス・ロス著、柿沼敏江訳、『20世紀を語る音楽』、みすず書房、2010

E・ヴァイスヴァイラー著、明石政紀訳、『オットー・クレンペラー―あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生』、みすず書房、2011

イーアン・ホースブルグ著、和田旦、加藤弘和訳、『ヤナーチェク―人と作品』、泰流社、1985

エヴァ・ドルリーコヴァー著、関根日出男、青木勇人訳、『レオシュ・ヤナーチェク年譜 図版で辿る生涯』、日本ヤナーチェク友の会、2006

『イェヌーファ 対訳と解説』、日本ヤナーチェク友の会、2001

John Tyrrell, Janáček: (1914-1928) Tsar of the Forests v. 2: Years of a Life, Faber & Faber, 2007

John Tyrrell, Intimate Letters: Leoš Janáček to Kamila Stösslová, Faber & Faber, 2005

John Tyrrell, Janáček's Operas a Documentary Account, Princeton Univ Pr, 1992

Mirka Zemanova, Janáček: A Composer's Life, Northeastern, 2002

Jaroslav Vogel, Leoš Janáček: A biography, Orbis Pub, 1981

Svět Janáčkových oper, Moravské zemské muzeum, 1998

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