スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

【書評】ピアニスト フランソワの〈粋〉を聴く(舩倉武一 著)

当会会員の舩倉武一氏が、今年生誕90年を迎えるフランスの名ピアニスト、サンソン・フランソワ(1924‐70)に関する本を上梓された。舩倉氏は、音楽への造詣が深く、とりわけフランソワとクーベリックに傾倒されており、これまでも音楽批評サイトAn die Musikや当会会報にしばしば寄稿されている大変に筆の立つ方である。


ピアニスト フランソワの〈粋〉を聴く
舩倉 武一 著
アルファベータ ¥ 1,728

フランソワ本

フランソワは私も好きだが、なかなか一概に評価することが難しいピアニストである。薫り高いフレンチピアニズムを体現する真正の天才である一方、その演奏は時に恣意的で不安定である。

この本は、フランソワの客観的な評伝でも研究書でもない。この天才ピアニストと主に録音を通じて長年付き合ってきた一ファンが、個人的な印象と思索を綴ったものだ。その想いは熱いが、ファンゆえの贔屓の引き倒しには陥らず、フランソワの弱点も含め、彼のピアニズムの全体像を捉えようとする姿勢がよい。

舩倉氏は、アマチュアのピアニストであり、専門的な音楽理論も学び、語学も堪能な方である。そんな彼が、愛情をもってフランソワの人生の軌跡をたどり、残された録音の一枚一枚、一曲一曲について聴き込み、考え、想う。愛好家個人の趣味を前面に出しながら、こうして起伏も含めて広く面的に捉えられたフランソワ像が、職業評論家のスポット的な評価と異なってくるのはむしろ興味深い。フランソワのディスコグラフィの中でも特に世評が高い代表盤が、舩倉氏からすると、彼らしい個性を抑えたものとして物足りなく思われる一方、演奏者会心のピアニズムとして舩倉氏が偏愛する録音は、評論家の評価が低い場合もある。

注目すべきはフランソワの私生活や、コルトーの後継たるべき看板として売り込んだEMIの思惑等、周囲の状況も考慮し、彼の演奏歴を3期に分けたことである。これは今後フランソワを語る上で基準となる区分だろう。

 要するに、フランソワの活動時期を、病気の前後で分類すると、
 第一期(1959年2月まで)は、フランソワがまさに本能的な魅力を発散した時期。したがって非常に勢いがあるが、彼のピアニズムが嫌いな方には、鼻につく演奏が多い時期。
 第二期(1959年~1969年初頭)は、フランソワの演奏にムラが生じ始めた時期で、雑な演奏やインスピレーションの不足した録音も散見される時期。ただし、ステレオ録音期に入ったため、後世に残る名演も同時に生まれた時期。
 第三期(1969年~没年)は、身体の自由が効かないにもかかわらず、足跡を残そうとする努力や苦労が、残された録音からも聴き取れ、涙ぐましい反面、体調の優れたときや技巧的な問題が生じない曲などでは、神がかり的な名演を残した時期。
(P117)


フランソワは生きていれば90歳で、メナヘム・プレスラー(1923-)とほぼ同い年だ。キャリアが短かったので随分と昔の人のように思えるが、残された録音も多く、まだまだ一般には知られていない多面的な魅力があるように思われる。

音楽について語るスタイルには様々なものがある。この本の美点は、愛好家として率直に「地図」を示したことだと思う。この本を読めば誰でも、舩倉氏による「地図」を頼りに豊かなピアニズムの世界に分け入ってみたいと思うだろう。次回は是非クーベリックの本を期待したい。

スポンサーサイト

きゃりーぱみゅぱみゅは、なぜ楽しいか?

KPP1.jpg

年明けから、きゃりーぱみゅぱみゅ(以下、KPP)に、はまっている。ここで扱う話題としては不適当かもしれないが、既に方々でカミングアウトしているのでいいだろう。いい齢をしてと笑われそうだが、ファンなのだから仕方がない。

きっかけは、旭日旗をあしらったKPPの年賀画像が韓国で批判を浴びたというニュースで、いくら韓国が反日でもKPPにまで難癖をつけるとはと可笑しかったからだ。問題となった画像にも笑った。そこでYouTubeでPVを観てみて驚いた。例えば海外でもブレイクしたPONPONPON(現在のアクセス数は4641万!)。CGで顔がグニャグニャに変形したり、口から目玉を吐き出すなど、女性スターとは思えない大胆な映像で、チェコのシュールレアリスト、ヤン・シュワンクマイエルの作品を思い起こさせた。



それまでは、原宿出身の不思議ちゃん系のアイドルが流行っているという位の印象しかなかったのだが、いろいろネットで映像を漁ってみると実にユニークで楽しく、アイドルという枠を超えたポップ・アイコンだと見直した。J-POPにはまるで疎いクラオタ親父の心まで鷲掴みである。一体なぜだろう。

思うにKPPはディズニーランドのようなものなのだろう。好き嫌いに関わらず、あそこのアトラクションの完成度の高さは誰でも認めざる得ないだろう。彼女の魅力は原宿のKawaiiを主題にしたテーマパークのようなもので、音楽、衣装、美術、振り付けなど各要素がよく作り込まれ、総合的にうまく纏まっている。

このKPPランドは、ディズニーがミッキーマウスをシンボルにしているように、彼女をシンボルにし、その個性とセンスを軸にしている。その周りに、音楽の中田ヤスタカ、衣装の飯嶋久美子、美術の増田セバスチャン、映像の田向潤、ジャケットデザインのスティーブ・ナカムラ等、一級の才人が結集し、コラボ・プロジェクトのようになっている。その上で童顔のKPPがデフォルメされた少女性を演じると何だか歌舞伎のようなワクワク感がある。少女性が商品化されると、ペドフィリアめいた「萌え」に堕して下品になってしまいがちだが、KPPはKawaiiにグロテスクな要素やコミカルな要素を加えて、男共の陳腐な劣情を裏切ってしまう("pretty bizarre" と評した海外のコメントがあった。)。KPPの水着グラビアなど想像もつかないだろう。その人を食った強かさがとても痛快に思える。



KPP2
先日はKPPの武道館ライブ(2012.11)のDVDを観て感心した。PVの密度に比べ、ライヴだとスカスカになってしまうのではと懸念したが、予想を大きく裏切り、よく練られたショウだった。このDVDはカメラワークも良く、映像作品としても優れている。「飛び出す絵本のサーカス」というコンセプトなのだそうだが、劇場的に心躍る要素がうまく盛られていて、進行に無駄がない。驚くべきは、KPPが1万人の観客を相手に一人で舞台を見事に仕切っていることだ。彼女はちょっと前まで素人の高校生だったのだが。また「きゃりーキッズ」と呼ばれるオーディションで選ばれた子供のバックダンサーが実に巧く、バロックオペラのような華やかな舞台効果を生んでいた。

興味深いのは、KPPが韓国のような国家ぐるみのプロモートなどなくても海外で熱狂的に支持されていることだ。YouTubeにアップされたPVには海外からのコメントの方が多いくらいだ。クールジャパンを売り込めなどとよく言われるが、基本的なプラットフォームさえ整っていればコンテンツの質次第で、こうして爆発的に拡散していくものなのだろう。この人気を評論家が、原宿のサブカルチャーが海外で受けていると解説するのは、間違いではないがちょっと違う気がする。


***

てなことを、娘に聞かせると「クラオタのオヤジはすぐに語り出して痛いねぇ」と言われるのだが。

追記:
この記事をアップした後、娘と札幌ライヴに行ってきた。娘の付き添いのような顔をして。このライヴの中で、KPPは、大のディズニー好きで、ディズニーランドのようなテーマパーク風の世界観を通して人々に夢を与えたいと語っていた。これは私の印象と重なっていてちょっと驚いた。当日の衣装は、ピーターパンのウェンディによるものだった。

テーマ : 女性アーティスト
ジャンル : 音楽

書評:『カフカと“民族”音楽 』(池田あいの著)

kafka


カフカと“民族”音楽
池田 あいの (著)
水声社 3,675円

チェコに生まれたユダヤ系ドイツ人のカフカにとって、“民族”とは何を意味していたのか。激動の19世紀末プラハを舞台に、友人ブロートや作曲家ヤナーチェクとの関係を検証しつつ、“小説”と翻訳、そして“音楽”のアイデンティティを問いかける新たなる視座。

カフカ~ブロート~ヤナーチェクの連関から、チェコにおける民族と音楽と言語を論じる興味深い本だった。

ヤナーチェクが生きたのは、各々の民族が言語と文化を拠り所にナショナリズムを主張した時代だった。彼も、当時、後進的と見られていたチェコ人の存在を文化面でアピールするためチェコ語でオペラを作曲した。しかし、「小民族」の言語であるチェコ語には、ドイツ語のようなメジャー言語への翻訳抜きに国際的なアピールができないというジレンマがあった。そのため翻訳という行為自体が、政治的な意味合いを帯びずにはいられなかった。この悩みに対し、ナショナリズムの風潮の中で疎外され、自らの母語と文化に不確かな感覚を抱くユダヤ人が、その仲介の役割を果たしたというのが面白い。

外向的なブロートはシオニズム運動等で積極的に活動を展開していくが、虚弱なカフカは内向し身体的なものに興味が向く。ブロートは、イスラエルへ移住後、チェコ音楽をモデルにして国民音楽の確立を模索していたという。一方、カフカは、ユダヤ以外の要素も雑種的に取り入れたイディッシュ劇に傾倒する。

カフカの文学仲間の内では彼だけが「非音楽的」だった。しかし、彼は「音楽」に多言語的な環境でも侵されない本質的なものというような特別なイメージを抱いていて、しばしばそのような意味でこの言葉を使っていたらしい。それが晩年の短編「歌姫ヨゼフィーネ、あるいはネズミ族」に繋がっていく。カフカは奇妙なくらい謙虚な性格だったから、「音楽」について書き、言葉で誤訳することに抵抗があったのかもしれない。

カフカとブロートの間には翻訳に対する考え方にもズレがある。これについて、ブロートが作成した『イェヌーファ』の台本のドイツ語訳(※当会会報、”『イェヌーファ』のマックス・ブロート訳をめぐって”参照)に対するカフカの批判が取り上げられており、示唆に富む論だった。カフカはブロート訳が不自然で創作的であると批判していた。その一方でカフカが評価していた翻訳として、恋人だったミレナ・イェセンスカによる『火夫』のチェコ語やイディッシュ劇の俳優イツァーク・レヴィのドイツ語があげられている。カフカはブロート訳について「巨人のような Riesenmensch」と評しているが、レヴィの不完全なドイツ語の修正については「繊細な手がいる」と書いている。私は今まで、この「巨人のような」という表現が理解できなかったのだが、つまりカフカから見るとブロート訳は「繊細な手」とはかけ離れた「巨人のような」手によるもので、いささか荒っぽく強引に思えたのだろう。このようにカフカ独特の言い回しは、彼のイメージの傾向を理解しないと必要以上に謎めいたものになってしまうようだ。

著者の池田あいの氏は1977年生まれの気鋭のドイツ・オーストリア文学研究者で、有難いことに参考図書として当会出版物も掲載下さっている。「クレンペル(クレンペラー)」などと表記しているので、クラシック音楽好きではないようだが、背景となる知識について丁寧に解説されており、詳細な注釈が付されていて、私のような一般の読者にも読みやすく刺激的な論考だった。

テーマ : クラシック
ジャンル : 音楽

書評:『複数形のプラハ』(阿部賢一著)

プラハという都市については既に多くの本が書かれてきたが、ここに魅力的な一冊が加わった。

複数形のプラハ

複数形のプラハ
阿部 賢一著
人文書院 ¥ 2,940

都市、それは多様な要素が共存する空間であり、それは一種のコラージュともいえる。
カフェ、広場、ショーウインドーといった様々な場所、複数の言語、様々な出自をもつ芸術家の目を通して浮かびあがる都市プラハの複数性と多層性。オーストリア=ハンガリー帝国の「地方都市」からチェコスロヴァキアの「首都」となった都市空間「プラハ」の深層を解読する。


縁の芸術家を介してプラハが語られる場合、もっぱらカフカが取り上げられてきたが、本書の人選はもう一捻りある。作家のリルケ、画家のムハ(ミュシャ)、写真家のズデク、そして作曲家のヤナーチェクはともかく、キュビストのクビシュタ、「チェコのカフカ」ヴァイネル、シュルレアリスム写真のシュテルスキーの名前は、チェコ愛好家にすら初耳だろう。

ここで取り上げられた芸術家はいずれも自身に「複数形」を持ち、それによる捻れを抱えている。そして、それらがプラハの多層性を浮かび上がらせていく。どの章にも鮮やかな論考が散りばめられていて無類に面白い。

例えば、故郷プラハをチェコ人の側に立って表出したドイツ系住民のリルケ。
ドイツ嫌いの反動から親フランス傾向が強かったプラハで「アールヌーヴォーの華」として人気を博しながら、自身はスラヴ主義者だったムハ。
チェコの作曲家として認められることを望んだが、モラヴィアの作曲家として扱われたヤナーチェク。
ピカソのような前衛性よりもゴシック、バロックの精神の表現としてキュビスムを選択したクビシュタ。
光と影により、「空想」と「現実」、「絵画」と「写真」という二項対立から逃れ、両者を共存させた独自の世界を作ったスデク、等。

ヤナーチェクに関しては、あまりにもプラハ的なオペラ、『ブロウチェク氏の旅』について述べられている。

だがさらに進めて考えると、ヤナーチェクのオペラは、特定の時代に対する政治的なテーマに限定されない、様々なメッセージを投げかけている。それは「言葉」というものが空間的、時間的な広がりの中で醸成されるものであり、けっして「単一」なものとして規定されえないということである。第一部では、月の住民が話す言葉は東ボヘミア方言としての地域偏差を、第二部では十五世紀の古チェコ語の使用によって、歴史的な変化の相を浮かび上がらせている。そのような差異があるなかで、私たちは何と、誰と自分を同一視できるのかという普遍的な問いかけを、ヤナーチェクは20世紀初頭のプラハというローカルな場から投げかけているのである。
(〈モラヴィア〉の作曲家の眼差し p130より)


このオペラで、陳腐な詩を得意気に朗読する月世界の詩人(雲の化身)は、ヤナーチェクの仇敵ズデニェク・ネイェドリーを揶揄したものという指摘は興味深かった。ヤナーチェク版のベックメッサーか。

チェコ関連の本は、その歴史や文化に馴染みがない方には少々わかりにくいものもあるが、本書はガイドブック的な基礎知識を文脈を沿って要領よく盛り込んでいて親切だった。特にプラハ城や聖ヴィート教会、プラハ市民会館等、この街を観光する者なら必ず訪れる「名所」についての記述を読むと、本書を片手にこの街を訪れ、自ら「複数形」を探索したくなるだろう。

テーマ : クラシック
ジャンル : 音楽

書評:『チェコ革命 1848年』(ペフ 著、 山下貞雄訳)

チェコの歴史と文化を知る上で大変参考になる本を読んだ。

チェコ革命
チェコ革命 1848年
スタンレイ・Z. ペフ 著、 山下 貞雄 訳 牧歌舎
http://www.amazon.co.jp/チェコ革命-1848年-スタンレイ・Z-ペフ/dp/4434156810

1848年、パリの二月革命が国王の退位と共和制の宣言により成功すると、革命は翌月以降、欧州各地に飛び火し三月革命となった。多民族国家であるハプスブルク・オーストリア帝国は、1814年のウィーン会議以来、宰相メッテルニヒの保守反動的な締め付けにより体制を維持してきたが、この「ウィーン体制」は革命により終わりを告げる。それは「諸国民の春」となるはずだったが、自由主義的な立憲政治への流れは1年足らずで封じられ失敗に終わってしまう。

本書は、チェコにおける経緯を詳述したもので、当時の複雑な政治状況におけるチェコ人の微妙な立場や、地域間の意識差、他民族との関係を知ることができて大変興味深いものだ。

1620年の「白山の戦い」での大敗以来、長く虐げられていたチェコ人の民族意識は19世紀初頭から高まり、いわゆる「民族覚醒」が起こる。その中でチェコ人の社会意識が芽生え民族運動になっていく。これは厳しい政治統制があったウィーン体制下で、しばしば文化運動を装わなければならなかった。国民楽派が育ったのもそのような土壌からだ。

18世紀の合理主義は学問的な刺激となり、19世紀初めのロマン主義は過去の栄光への郷愁を生んだ。西欧の平等主義と民主主義の理念、そして東欧のスラヴ諸民族の民族的類縁関係の自覚によって更に強く煽られた。(P17)

チェコ人はボヘミアの人口の過半数を占めていたが、自分たちの運命を司ることはできなかった。人智の及ぶ範囲でいくら努力しても、彼らの運命はドイツ人の手に握られていた。チェコ人は、そのすべての階級が、ウィーンのゲルマン的中央集権主義とその手段、すなわちボヘミアやモラヴィアにおけるドイツ的官僚機構に支配されていた。チェコ人農民はドイツ人領主に支配されていた。チェコ人労働者はドイツ人あるいはドイツ系ユダヤ人の起業家のために働いていた。チェコ人のカトリック教はドイツ・カトリックの聖職階級制度に指導された。チェコ人職人や小実業家はドイツ人大ブルジョワジーとドイツ資本に依存していた。(P15)


ウィーンで3月革命が起こりメッテルニヒが失脚すると、プラハでも国民による内閣と議会の設立を要望する委員会が開かれる。この委員会は、当初、ドイツ人とチェコ人の混成だったが、民族間の平等を謳うようになると、既得権益を失うことを恐れたドイツ人が離脱し、チェコ人の民族運動組織へと変質する。一方、ドイツ人は自由主義的な統一ドイツを目指し、チェコ人への支配を保ったまま統一ドイツへ取り込もうとするが、当然ながらチェコ人はそれに激しく反発する。

そこでチェコ人の政治的な立場は奇妙に捻れたものとなってしまう。弱小民族は帝国に自由を求める一方、ドイツ人に支配されることを恐れて帝国と協調せざるえない。この「オーストリア・スラヴ主義」のジレンマは様々な局面で矛盾と衝突を引き起こし、意識の相違から内部分裂の危機を生む。

6月には一部の急進的なプラハ市民がバリケード戦を始める。しかし、この「6月蜂起」は反動派の軍人ヴィンディシュグレーツ将軍に制圧されてしまう。

夏を過ぎる頃、革命が退潮となった機をみて帝国政府は分離主義に悩まされていたハンガリーへクロアチア軍を差し向ける。10月には、それに反発したウィーンの急進派が戦争相を惨殺する事件が起き、皇帝フェルディナンドはウィーンから逃亡する。

ハンガリー国内でマジャール人は、ドイツ人と同様、スロヴァキア人などのスラヴ民族に対し支配力をふるっていた。このため、チェコ人は、この事件を、スラヴ人であるクロアチアがマジャール人支配からスラヴ同胞を救援したと見た。一方、ドイツ人は、これを帝国の反動勢力が自由主義者を制圧したと見て、マジャール人と連帯した。

チェコ人はスラヴ主義の立場から帝国を支持するが、それが反動勢力を助けることになり、結局は裏切られてしまう。年が明けると議会は潰され、検閲などの締め付けは再び強まる。翌年5月に無政府主義者バクーニンが背後で動き国際的な革命蜂起が謀られたが、計画の杜撰さもあって失敗し、それは帝国に治安維持の口実を与えるだけとなった。これ以後の反動の時期、6月蜂起に参加したスメタナはスウェーデンに亡命することとなる。

この複雑な構図を図解すると次のようなものになるだろう。
チェコ革命1848

この革命は失敗に終わったが、チェコ人にとっては意義深いものだった。これにより初めてチェコ人が帝国内において自他ともに認める政治勢力となったからだ。

1848年、この屈辱は終わった。その一年で、チェコの民族運動は、文化的(あるいは半政治的)運動から立派な政治運動へと変貌した。(P310)

1848年まで、殆どのドイツ人はチェコ人を政治勢力と見做していなかったし、見做す必要もなかった。今やドイツ人はチェコ人を政治的に配慮する必要に迫られた。被抑圧民族から脱却したチェコ人は、数週間で、帝国議会で決定的な影響力を獲得し、帝国政府と政略結婚をし、帝国のあらゆる政治事項を詳細に吟味検討して、自分たちの利益を導きだそうとした。とりわけこれは、あらゆる職業において、ドイツ人の特権的立場を脅かすこととなった。(P311)


この状況はドイツ人(ボヘミア・モラヴィアのドイツ人、帝国内のドイツ人、ドイツ連邦内のドイツ人)にとって実に忌々しいことだった。大部なボヘミア・モラヴィア史を著した歴史学者のパラツキーは、この時、政治家としても活躍したが、エンゲルスから「チェコ語もろくにしゃべれないドイツ人学者に他ならない」と口汚く罵られている。

ここで興味深いのが、プラハを中心とするボヘミアと、ブルノを中心とするモラヴィアの政治意識の差だ。モラヴィアはウィーンと近いこともあり、ドイツ人の影響力が強く、チェコ人の民族意識もボヘミア程高くはなかった。そのためモラヴィアのチェコ人は、ボヘミアよりドイツ側に協調する場面もみられた。

ブルノにチェコ人の牙城となるベゼダ会館ができたのは1873年とかなり遅く、ヤナーチェクは19歳だった。ヤナーチェクは20歳でプラハに出てオルガン学校の聴講生になり、翌年、校長を批判したため退学してブルノに戻り、それからはこの街を生涯の拠点とする。この短いプラハ留学期は、ボヘミアとモラヴィアの政治意識の差を痛感させる機会になったことだろう。その後、ヤナーチェクはブルノのチェコ人社会の文化的リーダーとして活躍することになる。

また、連帯を目指したスラヴ民族間でも意識に相当な差がある。一連の出来事から浮かび上がるのは正面闘争を避ける現実主義的なチェコ人の態度だ。それは一歩間違うと日和見主義になりかねないが弱者の智恵ともいえる。そうした性格は流血沙汰を避けたナチスドイツのチェコスロヴァキア併合(1939)やビロード革命(1989)にも現れているのだろう。愚直なまでに徹底抗戦の姿勢を貫き、ドイツとの協調も厭わないスラヴの隣人、ポーランド人と対照的なのが興味深い。これはチェコ人にはドイツ語が普及していた一方、ポーランド人にはドイツ語を話せる者が少なかったことによる。チェコ人はドイツ化が進んでいただけに、大国ドイツへ吸収・同化される危険に常に晒されていた。そのためかえって帝国内のスラヴ勢力として中心的な役割を果たすことができたのだろう。

19世紀後半の中欧情勢は、様々な思惑が捻れ交錯しているため非常に分かりにくく、ヤナーチェクやドヴォジャークが置かれた政治状況には今ひとつピンとこない部分もあったのだが、本書はそこに至る基点を丁寧に描いていて大変情報量の多いものだった。本業が産婦人科医である山下貞雄氏の訳も読みやすかった。

テーマ : クラシック
ジャンル : 音楽

プロフィール

Pilsner

Author:Pilsner
発話旋律 "Speech Melody"
日本ヤナーチェク友の会公式サイト管理人Pilsnerのブログ
チェコ音楽を中心にした音楽雑記帳です。
The blog by the chief manager of Janáček Association Japan
http://twitter.com/#!/janacekjapan

カレンダー
03 | 2017/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -
最新記事
カテゴリ
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

Visitors
月別アーカイブ
検索フォーム
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。