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METライブビューイング、ドニゼッティ『ロベルト・デヴェリュー』に興奮!

METライブビューイングのドニゼッティ『ロベルト・デヴェリュー』を観てきました。ヴェルディやプッチーニはともかく、普段あまりイタリアオペラを聴くことがないのですが、イングランド女王エリザベス1世が登場するテューダー朝三部作のラストと聞き、劇場に足を運んでみました。

物語はやはり三角関係。エリザベス1世(エリザベッタ)の寵臣、エセックス伯ロベルト・デヴェリューは、反逆の罪に問われ逮捕される。女王は、年下の情夫でもあるロベルトの有罪判決を渋るが、反逆以上に心変わりを疑い愛憎半ば。実はロベルトは、かつての恋人、今は親友ノッティンガム公爵の妻であり女王の侍女でもあるサラに思いを寄せていた。ノッティンガム公はロベルトの助命を嘆願し、女王はロベルトの心変わりに怒りながらも処刑に同意したくない。サラはロベルトに逃亡を勧め、彼に別れの記念にと刺繍のスカーフを渡すが、それを逃亡中に押収され二人の関係が露見。ノッティンガム公は友の裏切りに怒り、サラは無実を訴え、遂にロベルトは処刑され、女王は嘆き、とまあこんな筋です。

ソンドラ・ラドヴァノフスキーのエリザベッタ、エリーナ・ガランチャのサラ、マシュー・ポレンザーニのロベルト、マリウシュ・クヴィエチェンのノッティンガム公爵、この4人の強力なベルカント歌手がハイテンションでずっとやり合っているようなオペラで、『イル・トロヴァトーレ』並に熱い作品でした。でもドニゼッティだから深刻な場面でもドイツオペラのようにくすんだ陰鬱さはないのですね。基本は長調、ただただ強烈なベルカントの応酬でぐいぐい畳みかける。

歌手は歌唱も立派だが演技も見事でした。とりわけ女王のソンドラ・ラドヴァノフスキーが素晴らしい。女王は情夫の裏切りを憎み、彼を容易に処刑できる権力を持ちながら、彼を失うことを怖れる孤独な立場。この凄味と弱さを両面備えた激しい歌唱で、最後には権威も何も失ってボロボロになって譲位する。実にドラマティックです。ベルカントがこういう芝居でこれほど劇的効果を発揮するとは正直思っていませんでした。モダンな作品のようにドラマのリアリズムを追求するよりも、歌舞伎のような様式的な面白さを感じました。

マシュー・ポレンザーニは甘く強靭な美声で丁寧な表現をするテノール、エリザベッタとの掛け合いには興奮しました。ラトビア出身のメゾソプラノ、エリーナ・ガランチャはモデル並の美貌と共に太く深々とした声質による貫禄の歌唱が印象的で、もっと色々聴いてみたくなりました。マリウシュ・クヴィエチェンも力強い歌唱で性格的な演技も良かった。加えてメトのオケが優秀で、老練なイタリア人指揮者のマウリツィオ・ベニーニが煽る煽る。とても痛快な舞台でした。難曲だけにドニゼッティの中ではあまり上演機会のない作品で、私もこれまでタイトルすら知らず、メトでもなんとこれが初演だそうですが大傑作ですね。演出は劇中劇という形を取っており、美術・衣装は贅を尽くした壮麗なもので見応えがありました。DVD化が待たれます。

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『古楽の楽しみ』の楽しみ

当会によるヤナーチェクのオペラ対訳解説書が完結してちょっと一段落した感がある。素人のオタクに過ぎない私が乗りかかった船で、多くの方々の助けを得ながらこれまでなんとか幹事として「友の会」を続けてきたが、先日、これで一旦、会の活動を小休止したい旨、会員の皆様に手紙を書いた。この先は未定だが、ヤナーチェキアンの寄合所である会がなくなることはない。ただ、当面、私は一介のぱみゅらーとして平穏な日々を過ごしたいと思っていたところだ。

もうガツガツとCDを蒐集する齢でもあるまい、と半ば隠居気分で乱雑に積み重なった本やCDの山を整理していた。そんな折に聴きはじめたのがNHKFMの朝の番組『古楽の楽しみ』だ。

そもそも私が古楽にはまったきっかけは、『古楽の楽しみ』の前の番組、『朝のバロック』だった。10代の頃、新譜紹介として放送されたカンプラのレクイエム(ガーディナー盤)に魅せられたのが始まり。小学校でバッハが「音楽の父」と教わっていたせいか、何となくクラシックはバッハから始まるような感覚だったので、バッハ以前にこんなに素敵な音楽があるのかと酷く驚いた覚えがある。以来、多感な10代はデラーやPCA、マンロウなどをLPで聴き漁ったり、『朝バロ』をエアチェックをするなどして過ごしてきた。なにしろ「音楽史」のレコードは廉価盤が妙に充実していたので若年者に優しかった。そんな訳で私の古楽歴は、チェコ音楽歴、ヤナーチェク歴よりも実はずっと長い。

だから、再びFMを聴きはじめたのは、加齢に伴う早朝覚醒を紛らわせるとともに、退行的な郷愁もある。そして久しぶりに古楽をラジオで聴いてみると改めて面白いことが分かった。

お目当ての音楽を聴くというのも良いのだが、放送の流れに任せて聴くというのも肩の力が抜け、新鮮な喜びがあってよい。これがロマン派の音楽ならちょっと重いかもしれないが、古楽だと自然に空気に馴染む。

以下、『古楽の楽しみ』の魅力を挙げてみよう。

1.時間帯、分量が良い
平日6時から55分の番組だ。毎朝、この時間に目覚める方は多いだろう。朝からシューマンやマーラーを聴かされては堪らないが、古楽の音が醸し出す空気は爽やかな朝の気分に馴染んで、一日の自然なスタートを促してくれる。

考えてみればクラシックの中でも古楽は古典派以降のモダンな音楽と毛色が違うように思える。それは無論、古楽器と古楽奏法によるのだが、音響への美意識がモダンとはそもそも異なるように思える。大雑把な印象だが、モダンなクラシックは、声は大きく、情感は生々しく、響きはみっしりと厚く耳に残る。これらは午後か夜に楽しむべき音楽で、朝ならば胃もたれがする。一方、古楽ならば響きは軽く、感覚美が強いように思われる。だから、ずっと付き合い易く、じっくり聴いてもよいし、朝の支度をしながら聴いてもよい。途中から聴いても楽しめる。だが薄味なわけではない。個々の曲が5~10分ほどで、55分の放送。この枠が長すぎず短すぎず心地よい。

2.プログラムと案内者が良い
月曜から木曜までがその週の特集で、金曜がリクエストによるアラカルトとなっている。特集は「〇〇とその周辺の音楽」や「〇〇の魅力」というようなタイトルが多く、一人の作曲家に限らない包括的、俯瞰的な内容になっている。ご案内下さる先生方の解説は簡にして要を得たもので、控えめな口調だが、言葉の端々に企画・選曲への拘りが滲みニヤリとさせられる。例えばここ2か月の特集は次のようなものだ。タイトルだけ見ても心躍らないだろうか。

・ストラデルラとその周辺の作曲家たち /今谷和徳
・モーツァルトが訪れた頃のフランスの音楽  /関根敏子
・イギリス・バロック音楽を輝かせた天才パーセルの音楽 /礒山雅
・フレスコバルディとその周辺の作曲家たち /今谷和徳
・ルイ14世のおい フィリップ・ドルレアンにまつわる音楽 /関根敏子
・古楽としてのハイドン /礒山雅

「周辺」といっても亜流でも中途の過程でもない魅力的な作品に触れるに、とびとびのビックネームで把握してきた音楽史の線がつながるから楽しい。キーマンを手掛かりに音楽史への興味が広がっていく喜びがある。

3.リスナーが良い
ツイッターで #古楽の楽しみ を検索すると、朝から多くの古楽ファンが集い、囀っている。ニコ動の実況さながらだ。古楽について話が合う方はクラシック好きの中でもそう多くはないので嬉しくなる。そうした「古楽の民」をホストのように纏めて下さっているのが、タイコウ様こと「つらつらたまさか」氏だ。氏の古楽への深い造詣と愛情、寛大なる茶目っ気には感服してしまう。集まっている皆さんには、楽器に親しみ、語学に堪能な方も多い。そしてなにより各々の古楽への偏愛ぶりが面白い。チェンバロ好き、イタリア・バロック好き、歌好き、笛好き等々。浅学非才な身だが、たまに混ぜていただいている。

先日はちょっとした椿事があった。女子サッカーの中継放送のため予定の番組が休止されてしまったのだ。それに伴いネット上で『偽古楽の楽しみ』がタイコウ様によって企画された。このツイッターラインはまとめられているが大傑作だ。

「偽古楽の楽しみ」 2015年6月17日

一つだけ悩ましいのは、これまで知らなかった作品、作曲家、演奏家との出会いから、そろそろ自重しようとしていた「ポチット」の誘惑に駆られがちなことだ。古楽研究も古楽演奏も進化しているのだから、知られざる沃野は日々開拓が進んでいるように思われる。おかげで毎朝『古楽の楽しみ』から目ではなく耳が離せないのだ。


追記:
NHKには23時くらいからの再放送をお願いしたい。

エーリヒ・クライバーとヤナーチェク~1920年代ベルリンのヤナーチェク演奏について

往年の名指揮者エーリヒ・クライバーというと、いまではむしろ天才指揮者カルロス・クライバーの父親というのが一般的な認識かもしれない。しかし、彼は戦前のベルリンで、ベルクの『ヴォツェック』等、同時代の作品を意欲的に取り上げるとともに、モーツァルト等、従来のレパートリーの演奏慣習にも一石を投じた演奏史的にも重要な巨匠だった。

先日、彼の評伝の邦訳が刊行された。

Kleiber_BOOK

エーリヒ・クライバー 信念の指揮者 その生涯
ジョン・ラッセル(著)
クラシック・ジャーナル編集部、北村みちよ、加藤晶 (翻訳)
アルファベータ
ISBN 9784871985796
価格 ¥3,360(税込)


本書は、エーリヒ・クライバーが存命中に執筆され亡くなった直後に刊行されたもので、特にシュターツオーパー時代の記述は充実している。特に興味を惹かれるのは、彼とヤナーチェク、ベルクとの関わりで、ヤナーチェク演奏史において特に重要な1924年の『イェヌーファ』上演については、かなりページを割いて記されている。

以下では、本書をベースに、エーリヒ・クライバーとヤナーチェクの関わり、とりわけ1920年代のベルリンにおけるヤナーチェク演奏について、他のヤナーチェク関連文献も参照しながらまとめてみたい。

*****

エーリヒ・クライバーというとウィーン出身の音楽家というイメージが強い。しかし、それ以上にプラハとの関わりが強い指揮者だった。

エーリヒの父フランツ・オットー・クライバーは、青年期にザクセンからプラハに移り住み、そこでチェコ人女性ヴローニ・シェプルと結婚した。彼は音楽的素養も豊かな学者であり妻を伴ってウィーンに移り住み、1890年にシューベルトが亡くなった家のすぐ向かいでエーリヒが生まれた。しかし、エーリヒが5歳の時に父は急逝し、翌年、母も後を追うように亡くなってしまう。孤児となったエーリヒは一つ上の姉とともに、プラハの母方の祖父の下に預けられる。エーリヒは、プラハに大変愛着を覚えたが、一年後、祖父が亡くなり、今度はウィーンの伯母の下に身を寄せ、そこでギムナジウムに入学する。

当時のウィーンはマーラーが宮廷歌劇場で活躍していた時期だった。彼はヴァイオリンを嗜んでいたが、苦学生だったため音楽教育を受ける余裕もなく、指揮者を志したのも遅かった。そのきっかけは、1906年、16歳の時にマーラーによる自作の交響曲第6番の演奏に接したことだった。なんとクライバーはその時から劇場付きのコレペティートル(歌手練習用の伴奏ピアニスト)として指揮者のキャリアを切り開くべく、ピアノの猛練習に励んだ。そんな彼にとってマーラーは、生涯の偶像となった。そして、このウィーン時代、彼は劇場や演奏会に精力的に通い、主要なレパートリーを吸収した。

1908年、18歳の彼はギムナジムを卒業し、ウィーンを去ってプラハに移り、プラハ大学に通いながらプラハ音楽院で学び始めた。彼は、その後、二度とウィーンに住むことはなかった。ヴィチェスラフ・ノヴァークのマスタークラスを受講し、この作曲家と親交を結ぶとともに、そこでチェコ語を完全に習得し、知人のつてで新ドイツ劇場(※1)にも出入りするようになる。彼は有能なコレペティートルとして活躍し、1911年には劇場指揮者としてデビューを果たした。

※1 現プラハ国立歌劇場(共産時代の名称:スメタナ劇場)。当時のプラハは言語によりチェコ人社会とドイツ人社会に分化しており、両者が棲み分けられていた。ドイツ劇場はドイツ人用の劇場で、プラハ国民劇場がチェコ人用だった。なお、新に対し旧のドイツ劇場は、モーツァルトのドン・ジョバンニが初演されたスタヴォフスケー劇場(ティル劇場)のこと。

1912年からはダルムシュタットの宮廷劇場に赴任し、駆け出しの指揮者としてオペレッタをよく振っていた。そしてその後、バルメン(現ヴッパータール)歌劇場、デュッセルドルフ歌劇場、マンハイム歌劇場へ移った後、1923年8月からシュターツオーパー(Staatsoper Unter den Linden、現在のベルリン州立歌劇場)の指揮者に就任した。そして、その翌年、ケーニヒ広場にあるクロル劇場がシュターツオーパーの傘下に入る。

ベルリン州立劇場1928年
シュターツオーパー(1928年)

クライバーは、自らのレパートリーに対する拘りが人一倍強く、彼の資質は特にオペラで発揮されたようだ。彼は言葉のリズムや抑揚が生み出す演劇性について特に鋭敏な感覚を持っていた。彼は子供の頃からおどけ者として有名で、他人の口調を真似て笑いをとるのを得意としていたという。そんな彼が10代の頃、ウィーンで足繁く劇場通いをしていたのをみて、彼の伯母は彼が役者を志望していると思っていたという。またダルムシュタット時代、しばしばオペレッタを振ったが、ここでも彼の強みは活かされた。ウィーン出身の音楽家はオペレッタが得意という周囲の期待があった上に、音楽的に薄っぺらい作品でも演劇的なセンスにより器用に盛り上げることができたからだ。

そんな彼が特に得意としたレパートリーは、次のようなものだった。モーツァルト『フィガロの結婚』、ウェーバー『魔弾の射手』、ワーグナー『トリスタンとイゾルデ』、R.シュトラウスの『薔薇の騎士』、ヴェルディ『リゴレット』等。そして、彼は外国人による新作(ベルクの『ヴォツェック』やストラヴィンスキー『プルチネッラ』『兵士の物語』等)を積極的に取り上げた。

こうした彼の志向に合致した作品として、当時まだ斬新な作品だった『イェヌーファ』が、チェコ語が堪能だった彼のレパートリーに加わる。きっかけは、シュターツオーパーの劇場総監督で、指揮者、作曲家でもあったマックス・フォン・シリングが1922年2月にプラハでチェコ・フィルを振った際、マックス・ブロートに誘われて『イェヌーファ』を観たことだった。

『イェヌーファ』の上演が決まり練習に入ると、ヤナーチェクの個性的な作風に、幾人もの歌手が拒否反応を示し交替した。ある者は次のように不平をこぼしたという。「私は歌手として雇われていた。喜劇役者でも、朗読家などでもない。あの作曲家は人間の声というものを分かっていないし、歌手に不可能な入り-うなり声やどなり声-を示している。たぶん気がふれているのだろう。いずれにせよ、自分の作った歌が歌いやすいかどうかなんてことはちっとも気にしてはくれない。」 しかし、クライバーは、持ち前のセンスにより粘り強く歌手を導き、この作曲家独特の「発話旋律」を巧みに実現させた。この特技は後に『ヴォツェック』でも発揮されることになる。

1924年3月17日、クライバーの指揮で『イェヌーファ』がシュターツオーパーでドイツ語上演される。この公演は、ヤナーチェクも臨席していた。当時、ヤナーチェクは70歳、クライバーは34歳だった。

この上演の際の政治的トラブルについては不明だったが、クレンペラーが、ケルン歌劇場で1918年11月『イェヌーファ』を、1922年12月に『カーチャ・カバノヴァー』を上演した際に激しい抵抗にあったことを考えると、格式の高いシュターツオーパーでも相当のことがあったと推察される。結果として、この上演は優れたスタッフが結集した最高水準のものとなり大いに注目を浴びた。この公演を聴くためにベルリンを訪れたヤナーチェクは、ドレスリハーサルを観て、妻ズデンカに興奮混じりに次のように綴っている。

27年もの間、今日の『イェヌーファ』のドレスリハーサルほどのものは誰も記憶にないだろう。巨大な劇場は人がいっぱいで、ベルリン中の評論家が集まっている。歌手や指揮者、そして私へのカーテンコールがいつまでも続くのだ! これほどの出来栄えはどこにもない。全てオリジナルな民俗衣装で、それらは我が国の大使館が州立歌劇場に贈ったものだ。指揮者のクライバーは比類ない。
(ヤナーチェクからズデンカ宛 1924年3月15日)


これまでヤナーチェクは、ブルノ、プラハ、ウィーンの実演に接していたが、このベルリン公演の上演水準は格別だった。彼はクライバーに大いに感謝し、ブルノに戻るとすぐにチェコ語で礼状を書いた。

私の想いは、いまだあなたと共にいます。あなたは私の作品に至高の瞬間を与え、まばゆい陽光で満たしてくださいました。新兵募集の歌やイェヌーファの歌は、これまで堅苦しい軍隊行進曲になってしまったものです。けれども、あなたはあの歌に若々しい活力を吹き込んだのです。「若い二人はみな、苦難に耐え抜いていかなくては」はプラハでもウィーンでも葬送歌のようにされてしまいました。あなたはそれに微笑みを加えてくださった。そうあるべきなのです。

おまけにこれまで第二幕ではどれほど酷い間が取られたことでしょう! しかしあなたは古典的なやり方でそれを組み立ててくださいました。そして、ラストの愛の賛歌の畳みかけるように加速する部分は本当に情熱的で、ここに限らずフィナーレ全体を見事に盛り上げてくださいました。『イェヌーファ』は、プラハでもウィーンでもなく、あなたによって、ようやく素晴らしいものになったのです。少しだけ注文を許していただけるなら、第一幕の序奏は不安な雰囲気を漂わせるためほんの少し速めていただけませんか? それに、水車小屋の近くの舞台上にシロフォンを加えてください。その冷たい調子を和らげられるでしょうから。私のお願いはそれだけです。
(ヤナーチェクからクライバー宛 1924年3月22日)


ヤナーチェクは楽譜の出版元であるウニベルザルの社長エーミール・ヘルツカ博士にも興奮を伝え、既にシャルロッテンブルク・ドイツ歌劇場でのベルリン初演が決まっていた『カーチャ・カバノヴァー』についてもシュターツオーパーに任せるべきだと主張した。『カーチャ』は劇場総監督だったシリングの妻、バーバラ・ケンプも主役に興味を示していた(彼女は後にイェヌーファ役を歌う)。

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クライバーとイェヌーファ役ジナイダ・ユルイェフスカヤを囲んでのスナップ(1924年ベルリン)

作品に対して批評家の意見は割れていたが、指揮者に対しては絶賛ばかりだった。例えばヴァルター・シュレンクは、「この見事な公演は、とりわけひとりの男による仕事だったし、我々が抱えているエーリヒ・クライバーという男が宝であることを、再び見せつけてくれた。彼がかつて無知で根拠のない非難を浴びたことを考えると、グスタフ・マーラーの時代以降、クライバーほどの創造力に近い何かをもってのし上がったドイツのオペラ指揮者は、ごく少数だったことをもう一度強調しておくべきだろう」と記している。

ベルリンでの成功を契機に『イェヌーファ』の国際的な評価は一気に高まった。ウィーン初演(1918)からこのベルリン公演までの6年間に、このオペラのドイツ語プロダクションは3件にすぎなかったが、次の6年間では少なくとも57件にものぼった。

残念ながら、その後、クライバーがベルリンでヤナーチェクを振る機会はなかった。しかし、当人には意欲があり作曲家も強く希望していた。ヤナーチェクはベルリンの成功を特に評価し、クライバーに恩義を感じていた。

1925年5月18日に『利口な女狐の物語』がプラハの国民劇場で初演された後、ヘルツカはヤナーチェクにこう書き送っている。

クライバーとシリングスは、これらが愛すべき作品でレパートリーから外す手はないと言っている。クライバーは、もし万端整ったならば、来シーズン『女狐』のドイツ初演をしたいと私に約束してくれた。もちろんドイツ語訳のスコアが夏の終わりころまでに出版されればという条件付きだが。
(ヘルツカからヤナーチェク宛 1925年4月1日)


1925年秋にはシャルロッテンブルク・ドイツ歌劇場がベルリン市立歌劇場(現ベルリン・ドイツ・オペラ Deutsche Oper Berlin)となり、ベルリンのオペラ界の新勢力としてシュターツオーパーの有力な対抗馬となる。ベルリン市立歌劇場は、音楽監督にブルノ・ワルターを迎え、ロッテ・レーマンをはじめとする錚々たる歌手が出演した。ワルターの任期中(1925-28)には、ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』やバルトークの『青髭公の城』等、意欲的な上演がなされた。1926年5月にはヤナーチェクの『カーチャ・カバノヴァー』がフリッツ・ツヴァイク指揮で上演された。これにはヤナーチェクも臨席し、その際、フランツ・シュレーカーやアーノルド・シェーンベルクと面会している。この公演にはクライバーや、マリア・イエリッツア(※ウィーン、ニューヨークでイェヌーファを歌ったソプラノ歌手)も駆け付けた。ちなみに、ツヴァイクもヤナーチェクを積極的に取り上げたドイツ人指揮者で、彼はモラヴィア出身であり、彼の妻はプラハの新ドイツ劇場のプリマドンナだった。

1927年にはシュターツオーパーの傘下にあったクロル劇場の総音楽監督にオットー・クレンペラーが就任した。彼はいち早くヤナーチェクを評価して作品の紹介に努め、それまでも『イェヌーファ』、『カーチャ・カバノヴァー』、シンフォニエッタのドイツ初演を果たしていた。9月27日、クレンペラーは顔見世公演で、ヤナーチェクのシンフォニエッタを演奏し大成功をおさめる。

クライバーが統べるシュターツオーパーはもともと宮廷劇場で、格式が高い大劇場である一方、クレンペラーのクロル劇場は実験的な小劇場だった。クライバー、クレンペラー共に、新作への意欲が強く、ヤナーチェク作品に強い関心を持っていた。このように、ベルリンの音楽界においてライバル関係にある二人が共にヤナーチェクに傾倒していたことは、彼の作品の国際的な普及に多大な影響を与えた。

また、当時のベルリンが、クライバー、クレンペラー、ワルターという、マーラーの影響を強く受けた指揮者に支配され、マーラーの革新的な精神が受け継がれていたからこそ、意欲的な上演が盛んになり、ヤナーチェクが積極的に演奏されたことも注目される点だろう。ベルリンの音楽界が保守的な黄昏の都ウィーンに対抗意識をもっていたことも、チェコの異端的な作曲家を受け入れる要因になったと思われる。

クライバーとクレンペラーは共に、ヤナーチェクの新作のドイツ初演を希望し競合していた。ヤナーチェクはクライバーを評価し特別な恩義を感じていたので『マクロプロスの秘事』は彼に任せるつもりだった。しかし、クレンペラーによるシンフォニエッタの成功を受けて、ヤナーチェクは彼に『死者の家から』を任せると請け合った。クレンペラーは『死者の家から』の上演をかねてから切望し、ヤナーチェクに再三催促していたからだ。しかし、ウニベルザルのヘルツカは、このオペラもクライバーに任せるようヤナーチェクに勧めていた。ヤナーチェクのオペラはプラハ初演が先行するため、ベルリンではドイツ語で上演されるとはいえ、チェコ語が堪能なクライバーはクレンペラーより有利だった。

クライバーは、1928年に『マクロプロスの秘事』のドイツ初演を具体的に計画していたが、バーバラ・ケンプがエミリア・マルティ役を拒絶したため上演が流れてしまう。しかし、クライバーによる詳細な注釈が書き込まれたピアノヴォーカルスコアが残っており、既に練習が進んでいたことを伺わせる。そのスコアにおいて、ブロートによる訳詞は50か所以上オリジナルに近いように訂正されており、チェコ語が堪能なクライバー自身が相当入念に準備していたようだ。

ヤナーチェクが世を去った翌年の1929年、世界恐慌が起こり社会情勢は一変、ナチスの台頭がベルリンの音楽界にも暗い影を落とす。1930年1月にドイツ国家人民党とナチスはプロイセン州立議会にクロル歌劇場の閉鎖動議を提出し、同年9月には選挙でナチスが大躍進し第2党になると、州政府は11月にクロル歌劇場の閉鎖を決定した。

1931年にクロル劇場は閉鎖され、その最終公演で『死者の家から』が上演されるが、陰惨な作品で終わりたくないと言い残しクレンペラーは南米に旅行に出てしまう(※ツヴァイクの指揮で上演は予定通り行われた)。この上演は実は8カ月前に予定されていたが、チェコで起きていたあるドイツ映画の排斥デモへの抗議を表するため延期されていた。もし予定通り上演されていればクレンペラーが振っていたことだろう。

1933年は節目の年だった。2月に国会議事堂放火事件発生し、ヒトラーが独裁体制を確立させ、ワイマール時代は終わりを告げる。フリッツ・ブッシュは、ドレスデンから侮辱を受けた上、追い出され、クレンペラーは一方的に契約解除されためスイスを経由し米国へ亡命する。ワルターも数々の嫌がらせを受けてウィーンに逃れた。

しかし、クライバーはベルリンに留まり続けた。彼はナチスの前で演奏することを厭わなかったが彼らになびくことは一切なく、それゆえに聴衆から支持され、ナチスからは睨まれた。だが、1934年11月、長年擁護してきたベルクによる「ルル交響曲」(未完に終わった同名のオペラの素材を使った交響曲)初演が禁止されるとすぐに、シュターツオーパーを辞任した。その後もゲーリング元帥が好条件を提示し強く慰留するが、「最初の演奏会でメンデルスゾーンをやらせてくれるという条件付きで」と答えたという。1935年に彼はザルツブルク音楽祭出演の後、妻と当時5歳のカルロスらを伴ってアルゼンチンに移住した。愛妻ルースがユダヤ系だったことも亡命の一因だった。


【参考文献】

ジョン ラッセル著、 北村みちよ、加藤晶、クラシックジャーナル編集部訳、『エーリヒ・クライバー 信念の指揮者、その生涯 』、アルファベータ、2013

菅原透著、『叢書・20世紀の芸術と文学 ベルリン三大歌劇場 激動の公演史【1900-1945】』、アルファベータ、2005

アレックス・ロス著、柿沼敏江訳、『20世紀を語る音楽』、みすず書房、2010

E・ヴァイスヴァイラー著、明石政紀訳、『オットー・クレンペラー―あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生』、みすず書房、2011

イーアン・ホースブルグ著、和田旦、加藤弘和訳、『ヤナーチェク―人と作品』、泰流社、1985

エヴァ・ドルリーコヴァー著、関根日出男、青木勇人訳、『レオシュ・ヤナーチェク年譜 図版で辿る生涯』、日本ヤナーチェク友の会、2006

『イェヌーファ 対訳と解説』、日本ヤナーチェク友の会、2001

John Tyrrell, Janáček: (1914-1928) Tsar of the Forests v. 2: Years of a Life, Faber & Faber, 2007

John Tyrrell, Intimate Letters: Leoš Janáček to Kamila Stösslová, Faber & Faber, 2005

John Tyrrell, Janáček's Operas a Documentary Account, Princeton Univ Pr, 1992

Mirka Zemanova, Janáček: A Composer's Life, Northeastern, 2002

Jaroslav Vogel, Leoš Janáček: A biography, Orbis Pub, 1981

Svět Janáčkových oper, Moravské zemské muzeum, 1998

テーマ : クラシック
ジャンル : 音楽

ヤナーチェク「十字軍」としてのオットー・クレンペラー(2)

●ベルリン・クロル歌劇場時代(1927-1931)

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クロル歌劇場 1930年

第一次大戦末期の1918年、ドイツでは市民生活の悪化から左派の影響力が強くなり、11月には革命により帝政が崩壊する。この革命を指導した社会民主主義勢力は、1919年にワイマールで国民議会を開き、ワイマール憲法を制定して、ワイマール共和国が成立する。

大戦間の短いワイマール時代は、通常3つの時期に分けられる。すなわち渾沌期、安定期、そしてナチズムへの移行期である。1924年から1929年(世界恐慌の年)まで続く「安定期」において、社会主義者のレオ・ケステンベルクは、音楽界の抜本的改革と民主化を掲げ、ベルリンのウンター・デン・リンデン歌劇場の別館、クロル歌劇場でその理想を実現しようとした。そして、先進的な上演で実績をあげていたクレンペラーがその総監督に抜擢された。

1927年9月27日、クレンペラーのクロル時代はシンフォニー・コンサートで幕を明けた。そこで取り上げられたのが、ヤナーチェクの『シンフォニエッタ』だった。この演奏会にはヤナーチェクが臨席した。

ヤナーチェクはコンサートの前日に到着した。翌朝、クレンペラーはヤナーチェクに『シンフォニエッタ』をピアノで弾いて聴かせ、ヤナーチェクはクレンペラーの速すぎないテンポに満足した。コンサートに対する批評家たちの態度はあいかわらず冷ややかなものだったが、聴衆は熱狂し、ヤナーチェクは舞台上に引き出され喝采を受けた。クレンペラーは、その夜、日記に「作品が打ち勝ったのだ」と記した。

Janacek&Klemperer
ヤナーチェク(73歳)とクレンペラー(42歳) 1927年9月30日

クレンペラーのドラマトゥルク、ハンス・クリエールは次のように回想している。

ヤナーチェクは(...)この演奏会に臨席するため、ブルノからやってきた。彼は朝早く列車から降り立った。それは穏やかながらもきっぱりとした顔、天然ウェーヴのかかった白髪、深く青い目を持つ、ずんぐりとした人物だった。(...)ヤナーチェクの動作は落ち着き払い、世間の忙しなさを離れて内なる声に耳を傾ける人のように思えた。(...)わたしたちはアンハルト駅から徒歩で近くのホテルに向かったが、(...)街の喧騒をヤナーチェクは気にも留めていない様子だった。(...)午前の遅い時間、彼はゲネプロにやってきた。(...)ヤナーチェクが広大な観客席を持つクロル・オペラのがらんとした平土間席に立ち、自分の音楽に聴き入っている姿は感慨深いものがあった。彼は曲のフレーズを口ずさまんばかりになり、細心の注意を払いながら演奏を追っていたが、それになんの訂正も加えなかった。ヤナーチェクが褒めたのは、クレンペラーの手で浮き彫りにされる音楽構造の透明さ、そしてトランペットを十二本も使うために陥りがちなデモーニッシュな誇張を排し、仰々しい音響を退けたことだった。(...)その晩の『シンフォニエッタ』の演奏は筆舌に尽くしがたいほどの拍手を引き起こした。それをヤナーチェクは自然体極まりない態度で受けとった。オーケストラの真ん中に立ち、クレンペラーと手に手を取りながらである。彼は自分より六歳年下のマーラーも属する音楽世代の代表格だった。(...)翌日、ヤナーチェクはドストエフスキーの(...)『死の家の記録』を原作にした新作オペラを作曲していると話してくれた。(...)完成の見込みはいつ頃でしょうかと尋ねたところ、ヤナーチェクは答えを避け、こういう仕事は自然なプロセスで、終着は見えないものです(...)と言っていた。(...)9ヶ月後、ヤナーチェクが突然亡くなってしまった。それでもクロル・オペラの演目予定を立てるとき、あのドストエフスキーのオペラを上演したという気持ちはもう消し去りがたいものになっていた。
(ヴァイスヴァイラー著、 明石政紀訳「オットー・クレンペラ―あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生」、p167)


この訪問の際、ヤナーチェクは、クレンペラーにモスクワ旅行における『シンフォニエッタ』の演奏と、クロル歌劇場における『マクロプロスの秘事』の上演を認めた。これは正式な契約ではなかったが、ヤナーチェクはカミラに次のように書き送っている。

親愛なる魂よ
私のささやかな作品が聴けて嬉しかった。私はモスクワでの演奏と最新作のオペラの契約書にサインしたよ。君を思っている。金曜の明日ここを発つ。日曜には一緒にいられるだろう。
君のL
(ヤナーチェクからカミラに宛てた1927年9月29日付の手紙)


『マクロプロスの秘事』の上演は、結局、クロル歌劇場では実現せず(※10)、1929年2月14日にフランクフルト歌劇場においてヨーゼフ・クリップスの指揮でドイツ初演された。

※10 イアン・ホースブルク著『ヤナーチェク 人と作品』(泰流社、絶版)には、1928年にクレンペラーがクロル歌劇場で『マクロプロスの秘事』を上演したとあるが誤りである。

また、ハンス・クリエールの回想のとおり、クレンペラーは、当時作曲中だった『死者の家から』にも強い関心を示していた。これについてヤナーチェクは「彼らは私を説得したが、私には舞台が小さすぎるように思えた。」と9月29日付けの日記に書き残している。そしてヤナーチェクは、彼の楽譜出版者であるエミル・ヘルツカに対して内々にクレンペラーの下で上演したい意向を伝え、「私の考えだと、(クレンペラーは、ウンターリンデン劇場の中で)最も才能ある指揮者の一人だ。」と書き送っている。一方、クレンペラーは、出版社の態度が曖昧なのにしびれを切らし、10月11日付けでヤナーチェクに、この問題を後押しする気がないのかとただし、「私にとり芸術的に最重要な作品だからこそ、 悪趣味なスターシステムを排そうとしている我々の劇場でなければ、この種の作品を適切な状態で上演できないだろうと信じています。」と書き送っている。このシーズン中にクレンペラーは少なくとも2度ヤナーチェクへ手紙を書いており、1928年5月21日付の手紙では「私がこの作品をベルリンで指揮できることを心より願っています」と書送っている。しかし、その3ヶ月後の8月12日にヤナーチェクは亡くなってしまう。

クロル歌劇場では、クレンペラーの下で、旧来のレパートリーに斬新な演出(例えば、『フィデリオ』『さまよえるオランダ人』『フィガロの結婚』等)が試みられ、先進的な同時代の作品(例えば、ヒンデミット『カルディアック』、シェーンベルク『期待』『幸福な手』、ストラヴィンスキー『エディプス王』『兵士の物語』等)が取り上げられた。これはベルリンの音楽界に大きな刺激を与えたが、同時に強い反発も招いた。

特に物議を醸したのは1929年1月に上演されたワーグナーの1843年初演版『さまよえるオランダ人』だった。クレンペラーの解釈とフェーリングの演出はセンセーショナルな成功を収める一方、保守的な民族主義者の憎悪を招き、脅迫や妨害も相次いだ。

1929年10月27日に世界大恐慌が起こると、3ヶ月後の1930年1月7日、ドイツ国家人民党とナチスはプロイセン州立議会にクロル歌劇場の閉鎖動議を提出した。そして同年9月には選挙でナチスが大躍進し第2党になる。11月、ついに州政府はクロル歌劇場の閉鎖を決定した。

クロル歌劇場における最後の新演出公演として、『死者の家から』が1931年5月29日に予定された。クレンペラーは、前述のとおり、この作品に強く執着していたが、陰惨な作品で終えるのを嫌って、4月27日、南米に旅立ってしまう。

ハンス・クリエールは次のように回想している。

「クレンペラーが言うには。「『死の家』なんか最後にやっちゃいけない。最後は『ばらの騎士』で楽しく閉めてくれ」ということだったんです。ところがそれをわたしには直接言わずティーティエンに言ってきたんです。口の軽いティーティエン(※11)はその数分後にわたしに電話をかけてよこし、「あののっぽが今出発したところですよ。あの男、なんて言ったと思います?」と話してくれました。(...)クレンペラーは旅に出てしまったんです。リスボンから南アメリカに船で行ってしまったんです。深夜三時にうちに電話がかかってきましてね。電話の主はクレンペラーでした。「さようならを言いたかっただけなんですよ。数時間後には南米へ発つんでね。でも『死の家』はやめて(これはもう準備中だったんですよ)、『ばらの騎士』をやらなくちゃ駄目です」。そこでわたしはこう言ってやったんです。「だったら戻ってきて『ばらの騎士』を指揮してくださいよ。でなければそんなことはできませんね。それなら『死の家』をやります。なにしろこの劇場は死の家ですからね。それが締めなんです。
(ヴァイスヴァイラー著、 明石政紀訳「オットー・クレンペラ―あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生」、p189)


※11 筆者注。クロル歌劇場の最高責任者ハインツ・ティーティエン

結局、『死者の家から』は、フリッツ・ツヴァイクの指揮で予定通り上演された(※12)。その日、クレンペラーは、ブエノスアイレスにいた。収容所のセットは、クレンペラーの目論見通りのもので、その強烈な印象はこれまでどおり賛否両論あるものだった。

※12 『死者の家から』の国外初演は、この公演ではなく1930年12月14日のマンハイム国立劇場だった。NHK交響楽団の基礎を築いたことで知られるヨーゼフ・ローゼンシュトックが指揮をした。ローゼンシュトックもユダヤ系で、同時代の音楽を積極的に演奏した。

こうしてワイマール文化の精華であるクロル歌劇場は幕を閉じた。まさにクロル時代はヤナーチェクに始まりヤナーチェクに終わったのだった。

klemper
クレンペラーの墓(スイス、チューリヒ南部)

テーマ : クラシック
ジャンル : 音楽

ヤナーチェク「十字軍」としてのオットー・クレンペラー(1)

20世紀を代表する大指揮者、オットー・クレンペラー(1885-1973)の評伝を読んだ。

オットー・クレンペラー あるユダヤ系ドイツ人の音楽家人生
エーファ・ヴァイスヴァイラー (著), 明石 政紀 (翻訳)
みすず書房

クレンペラー本

クレンペラーに関しては、本人とも面識があった英国の批評家ピーター・ヘイワースが決定版ともいえる大部な評伝を著しているが、これは残念ながら邦訳されていない。本書は、主に戦前の活動に重きを置き、ドイツ人女性らしい視点からクレンペラーの人間性や彼を巡る女性、ワイマール期の状況に関して、ヘイワースへの批判・修正を随所に交えながら詳述している。

私がこの本を読んで特に興味深かったのはヤナーチェクとの関係の深さだ。以下、本書に加えヘイワース本や何冊かのヤナーチェク関連文献によりクレンペラーの功績についてまとめてみたい。

*****

クレンペラーはヤナーチェクにとりチェコスロヴァキア国外における最大の擁護者だった。クレンペラーは、単なる演奏者という以上に、ディーリアスにとってのビーチャムと同様、並み居る敵対者と正面から戦う「十字軍」だった。

クレンペラーの指揮者としてのキャリアはプラハから始まる。当時、彼にとってアイドルだったマーラーから推薦状を得て、22歳でプラハの新ドイツ劇場(※1)の楽長に就任したのだ。その後、ハンブルク歌劇場、バルメン(現ヴッパータール)歌劇場、ストラスブール歌劇場、ケルン歌劇場、ヴィースバーデン歌劇場、そしてクロル歌劇場へと移り、持病の躁鬱病に悩まされながらも、同時代の作品を精力的に取り上げ、名声を高めていった。

※1 現プラハ国立歌劇場(共産時代の名称:スメタナ劇場)。当時のプラハは言語によりチェコ人社会とドイツ人社会に分化しており、両者が棲み分けられていた。ドイツ劇場はドイツ人用の劇場で、プラハ国民劇場がチェコ人用だった。なお、新に対し旧のドイツ劇場は、モーツァルトのドン・ジョバンニが初演されたスタヴォフスケー劇場(ティル劇場)のこと。

●ケルン歌劇場時代(1917-1924)

クレンペラーのキャリアの中で、クロル歌劇場時代と並び重要なのがケルン歌劇場時代(1917-1924)だ。クレンペラーは、ケルンで同時代の作品(※2)を積極的に取り上げ、ヤナーチェク作品への情熱もここから始まる。クレンペラーは、ヤナーチェクの作品の中で、まず『イェヌーファ』のドイツ初演を敢行した。

※2 ブゾーニの『トゥーランドット』『アルレッキーノ』、ツェムリンスキー『こびと』、プフィッツナー『パレストリーナ』、シェーンベルク『月に憑かれたピエロ』、シュレーカー『イレローエ』等

『イェヌーファ』は、ヤナーチェクが自らのスタイルを確立した出世作で、1904年にブルノで初演された。ヤナーチェクは『イェヌーファ』のプラハ上演を熱望したが、プラハ国民劇場は、以前に彼から自作を辛辣に批評されたカレル・コヴァジョヴィッツが仕切っていたため、長く上演を拒絶され続けた。それでも友人の尽力により1916年5月、ようやく念願のプラハ初演に漕ぎ着け、大成功する。カフカの友人としても知られるユダヤ系作家、マックス・ブロートは、この上演を観て感激し、『イェヌーファ』の台本をドイツ語に翻訳する。(※3)そして、これによりウィーンの大手楽譜社ウニヴェルザールが『イェヌーファ』のスコアを出版した。

※3 ブロートに『イェヌーファ』を観るように薦めたのはドヴォジャークの娘婿で作曲家のヨゼフ・スークだった。同年10月にプラハ訪問中のR.シュトラウスもスークに勧められて衣装稽古を観て、ヤナーチェクと会い、作品を賞賛している。

折しも、オーストリア=ハンガリー帝国は、1916年に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が亡くなり、第一次大戦では敗色が濃くなっていたため、国内の民族融和を演出すべくウィーン宮廷歌劇場でスラヴ作品の上演を検討していた。そして、1918年2月にウィーンで『イェヌーファ』の国外初演が実現した。この上演はドイツ民族派の抵抗もあり大成功とは言えなかったが、これによりヤナーチェクは国際的に認知された。

同年11月16日にケルン歌劇場でクレンペラーが演奏した『イェヌーファ』は、ウィーンに次ぐ国外上演だった。これはチェコ人がオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊を機に独立を達成した直後だったので(※4)、ドイツ国内でチェコ作品に対する反発はきわめて強かった。ケルン歌劇場の合唱団は「ドイツの緑の野を荒らし、ドイツ女性を凌辱する連中と同郷の者のオペラ」など歌えないと抗議した。初日、この特異な作風のオペラに対する聴衆の反応は、第2幕まで戸惑い気味だったが、第3幕では喝采に変わり、上演はセンセーショナルな成功に終わった。クレンペラーは、この勝利を喜び、ブゾーニに手紙で興奮気味に報告している。しかし、18日付のケルン日報は、「この音楽の未熟さはボヘミア人(※5)が真の芸術家ではなく楽士にすぎない証である」とこき下ろした。一方、23日付のライン音楽劇場新聞は、「無文化なスラヴ人の厚顔無恥に深く傷ついている」時勢にこのような作品が上演されたことは遺憾であるとしながらも、「根源的な心情の発露に対する鋭敏な感覚」に感銘を受けたことは認めざるえない、と記している。

※4 チェコスロヴァキア共和国が誕生したのは同年10月28日、チェコスロヴァキアがドイツ領だったズデーテン地方を支配下に置いたのは11月10日である。

※5 ヤナーチェクはボヘミア人ではなくモラヴィア人である。

その2年後の1920年にはクレンペラーは『ブロウチェク氏の旅』の上演も画策している。彼は、台本の翻訳をブロートに依頼したが、チェコ人の民族的栄光を讃えた2部の内容が問題となり断られている(※6)。

※6 『ブロウチェク氏の旅』のドイツ初演は、1959年にヨーゼフ・カイベルト指揮のバイエルン国立歌劇場でようやく実現する。この時のライヴ録音はCD化されている。

そして1922年12月8日、クレンペラーは、ケルン歌劇場で『カーチャ・カバノヴァー』を上演した。これは、ブルノでの初演(1921.11.23)の1年後、プラハでの上演(1922.11.30)の1週間後で、もちろん国外初演である。この上演も『イェヌーファ』の時と同様に反対派の厳しい攻撃にさらされた。ある批評家はヤナーチェクの名前をあえてドイツ風にJanatschekと表記した上で、この未熟な音楽家を排斥せよと訴えた。不運にもドラマトゥルクのフェリックス・ダーンが病気になり、クレンペラー自身も体調不良に悩まされたため、下稽古のほとんどは助手のヴィルヘルム・シュタインベルク(※7)が担当した。こうした事情もあって上演日程が遅延したため、『カーチャ』の上演は、クレンペラーが初日を振っただけでお蔵入りし、彼は初日後すぐにローマへの演奏旅行に発たなければならなかった。

※7 後に亡命し米国で活躍したユダヤ系指揮者のウィリアム・スタインバーグである。


●『シンフォニエッタ』

ヤナーチェクの作品中でいまや最も有名な『シンフォニエッタ』は、街頭で聴いた軍楽隊や民族主義的な体育団体「ソコル」へのファンファーレの依頼をきっかけに構想が膨らみ、1926年3月から僅か一ヶ月で描き上げられ、同年6月にヴァーツラフ・ターリヒ指揮のチェコ・フィルにより初演された。7月13日、クレンペラーは、「作曲家、レオシュ・ヤナーチェク様、ブルノ」とのみ宛名書きした手紙を書き、その年明けに計画している米国への演奏旅行でこの作品を演奏したいと願い出た。これはクレンペラーがヤナーチェクに直に連絡した最初だった。ヤナーチェクは「私は貴方とは面識がないが」と丁重に書きながらも快諾した。

クレンペラーは、12月9日にヴィースバーデンで『シンフォニエッタ』のドイツ初演を行った。聴衆の反応はいま一つで、クレンペラーは「この音楽とサウンドは新しすぎるのだ」と楽譜出版社ウニヴェルザールに書き送っている。なお、クレンペラーはヴィースバーデンで『利口な女狐の物語』の上演を考えていたが実現しなかった。

1927年1月、クレンペラーは2度目の米国旅行に出発し、3月4日にニューヨーク交響楽団で『シンフォニエッタ』を演奏した(※8)。

※8 ちなみにニューヨークのメトロポリタン歌劇場では1924年に『イェヌーファ』が上演されている。

また、クロル劇場時代の1929年、クレンペラーは、モスクワ旅行で『シンフォニエッタ』をソビエト初演している。クレンペラーは、この作品のスラヴ性がロシア人にアピールすると期待していたが、全くの不評に終わった。「プロレタリア音楽家」誌は、作曲手法が荒っぽく機械的だと批判し、「音楽と革命」誌は「音楽は新鮮で誠実だが、展開の貧困、形式の軽さ、文字通り交響的思想の欠如(※9)は何としたことだろう」と結論づけた。

※9 曲名が"Sinfonia(交響曲)"ではなく、"Sinfonietta(小交響曲)"であることを揶揄している。

なお、クレンペラーの『シンフォニエッタ』は次の2種類のライヴ録音がCD化されている。現在入手できるクレンペラーのヤナーチェク録音は、これだけである。

①コンセルトヘボウ管弦楽団(1951年、アムステルダム・コンセルトヘボウ)
②ケルン放送交響楽団(現WDR交響楽団)(1956年、ケルン西部ドイツ放送館)

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