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独房の中のイェヌーファ~新国立劇場『イェヌーファ』を観て

新国立劇場の『イェヌーファ』初日を観てきました。以下、感想メモです。演出に関してネタバレを含みますのでご了解ください。

***
ヤナーチェク:歌劇『イェヌーファ』
新国立劇場
2月28日(土) 14:00~
http://www.nntt.jac.go.jp/opera/jenufa/
https://www.youtube.com/watch?v=jBLGP50bDh8&feature=youtu.be

クリストフ・ロイ演出の舞台装置はきわめて簡素である。冒頭、コステルニチカは看守に連れられ舞台に登場する。彼女は嬰児殺しの罪で逮捕され拘置されるところなのだ。そこは真っ白な壁に囲まれ、小さなテーブル以外何もない殺風景な空間。ドラマはその独房の中の彼女の回想から始まる。イェヌーファやブリヤ家のお祖母さんは、回想するコステルニチカの傍らに現れ、曲が始まる。

この真っ白で殺風景な空間は、多少のアレンジはあるが、全幕を通じて舞台を占める。それは寒村の因習的な閉塞感を表すと共に、登場人物間で共感できる背景を欠いていることを表しているのだろう。コステルニチカはイェヌーファを愛し、イェヌーファはシュテヴァを愛し、ラツァはイェヌーファを愛するが、それらは第3幕の最後でコステルニチカが告白するように相手への思いやりを欠いた身勝手な感情にすぎないのかもしれない。第2幕のコステルニチカの小屋では、出産したイェヌーファが隠され守られているのだが、精神病患者が監禁・隔離されているようにも見える。

ラストでイェヌーファとラツァは白い空間から抜け出して暗闇に向かっていく。これは閉塞からの脱出という点では希望だが、やはり背景を欠いた黒。二人の将来に共感や希望があるのかは不明だ。これは観客に安易な情緒的解決を与えない、辛口の演出と言えるだろう。

この演出はベルリンドイツオペラにおける上演がDVDになっている。主要なキャストも今回の新国の上演とほぼ重なる。このDVDは、グラミー賞にもノミネートされ評論家の評価はとても高いようだ。私もこれを観て今回の上演に臨んだ。

率直に言って、私はこの演出には当初かなり抵抗感があった。衣装は現代風だが奇妙な読替を行っていないので、ドラマの本筋を外れたものではない。とは言え、舞台セットがあまりにシンプルなので演出家の意図は汲めるが、視覚的に単調に思われた。『イェヌーファ』が本来持つ地方色を容赦なく切り落とした演出は、作品本来の味わいを減じているように思えた。『蝶々夫人』が日本という文脈から離れられないように、『イェヌーファ』もモラヴィアの民俗性から離れて欲しくないと思った。そんなモヤモヤを抱えながら、新国の上演に臨んだ。

結果、素晴らしく感動的な上演だったと思う。
2幕くらいから胸が詰まって、ただただ鼻水を垂らしながら泣いていた。DVDの印象とどこが違うのか。それは、チェコ人指揮者トーマス・ハヌスの解釈がこの作品本来の演劇性を強化し、辛口の演出と相乗したことによる。

ヤナーチェクのオーケストレーションは独特の響きがする。CDで耳に馴染んだ作品もライヴで聴くと意外な発見が多い。今回もそうだったが、特にハヌスはチェコ語が母国語だけあってオケと言葉との絡みが優れていたように思う。ヤナーチェクのオペラは、朗々としたアリアや二重唱の旋律で聴かせるわけでも、分厚く雄弁なオケの響きで聴かせるわけでもない。ポツンと心情を吐露した短い一言にこそヤナーチェクの音楽の醍醐味がある。オケの響きはむしろ薄く、旋律的な流れとは異なる表現的な音型が混じる。「私の心は復讐に燃えている」とか「恋心に胸が張り裂けそう」というようなドラマチックな文句ではなく、「私はお前に賭けていたのに」「人生ってこんなものだとは思わなかった」「小さい頃からあいつばかり可愛がって」というような言葉が胸に迫ってくるのが『イェヌーファ』の魅力だ。美しい旋律が多いがほとんどは短く、情緒的気分を引きずらない。音楽に詞が付いているというより、台詞に節がついている風だ。ハヌスはそんなヤナーチェクの特徴を熟知しスコアを読みこんでいるように思えた。並の指揮者なら何気なく通りすぎる一節もテンポを落として丁寧にオケと噛み合わせる。そうすると繰り返される表現的な音型が浮き立って心理的効果を生む。そして随所で、たっぷりと沈黙の間をとる。その間の後、無伴奏で歌が入る箇所が多いが、何とドラマに真実味がこもっていたことか。それは簡素な舞台だからこそモダンな表現として活きるところも多々あった。東京交響楽団は、ヤナーチェクの主要作品をセミステージ形式で上演した実績があるだけにツボを押さえた優れた演奏で、第2幕におけるヴァイオリンソロも美しかった。

歌手は総じて大変良かった。DVDで観たベルリンドイツオペラの上演よりずっと良い出来だった。ベルリンの上演では、オケと言葉の絡みに若干齟齬があったため、実力派の歌手達はもっと語って欲しいところまで歌詞として歌い過ぎていた。そこがどうも不満だった。今回の上演では、言葉が上手くはまっていて、言葉と結びついた演技も光る。

タイトルロールのミヒャエラ・カウネは、イェヌーファの精神的成長をよく表現していた。第1幕では若い娘らしい浮薄さと共に継母譲りの思慮も備えている。第2幕では不安定なシングルマザー。第3幕では苦難を受け止めながら他者に赦しを与える存在。そういうフラットではない女性像を柔らかく丸みのある声で丁寧に歌い、語り、演じていた。ベニャチコヴァーやマッティラと共に重要なイェヌーファ歌手だと思う。

ラツァ役のヴィル・ハルトマンも、第1幕は嫉妬に駆られた捻くれ者だが、2幕以降は罪を悔いイェヌーファに献身する男を好演し、特にイェヌーファとの対話の場面で彼女に語り掛ける柔らかい歌唱が感動的だった。

コステルニチカ役のジェニファー・ラーモアはパワフルな歌手だが、DVDでは歌い過ぎていてやや平板に思われた。だが今回の上演では、硬直した役柄が上手くオケの響きにはまって歌唱にならない台詞のような部分(例えば第2幕の幕切れ「死神が覗き込んでいるよう!」等)の表現にも凄味があった。

シュテヴァ役のジャンルカ・ザンピーエーリは、「ゲスの極み」な「チャラ男」を好演してキャラ立ちしていた。同じテノールのラツァと好対照で声質にも楽天的な甘さがあり良かった。

そして流石に貫禄だったのは、ブリヤ家の御祖母さんを歌った72歳の名歌手ハンナ・シュヴァルツ。端役なのだが、深い響くメゾソプラノの存在感に驚いた。

日本人歌手も皆、好演しており、村長(志村文彦)やカロルカ(針生美智子)が印象に残った。合唱も優れており、特に群衆としての活き活きとした動きが見事だったと思う。

***

今回、ヤナーチェク作品を取り上げ、プレイベントまで開催して下さった新国立劇場のスタッフの皆様には心から感謝いたします。おかげさまで、今回の上演に合わせ当会の対訳解説書を増補改訂の上で出版することができました。今後も我が国でヤナーチェク作品が上演されることを強く期待します。
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テーマ : クラシック
ジャンル : 音楽

ジ・アート・オブ・アルド・チッコリーニ ピアノ・リサイタル 2012

先週末、上京してアルド・チッコリーニのリサイタルを聴いてきた。

ジ・アート・オブ・アルド・チッコリーニ ピアノ・リサイタル
~ドビュッシー生誕150年記念《ドビュッシーとセヴラック》

日時:2012年12月1日(土) 15:00開演
場所:すみだトリフォニー・ホール
曲目:
 セヴラック/「春の墓地の片隅」~組曲《ランドックにて》より
       《休暇の日々から》第1集
       リヴィアのキリスト像の前のラバ引きたち
         ~《セルダーニャ》5つの絵画的練習曲
       演奏会用の華麗なワルツ「ペパーミント・ジェット」
       
 ドビュッシー/前奏曲集第1巻

《アンコール》
 スカルラッティ/ソナタ ホ長調K.380
 グラナドス/スペイン舞曲第5番アンダルーサ(祈り)


まさに、文字通りの巨匠芸、巨大な匠の芸術に胸が一杯になった。チッコリーニは今年87歳。優雅に杖をついてステージに現れ、ゆっくりとピアノの脇にそれを掛け、弾き始める。

技術的には超絶的なヴィトルオーソだった頃からすると後退した面もあるかもしれないが、それは技巧で聴かせるという性格が薄くなっただけで、まだまだ驚くべき水準を保っていた。けっして、この齢にしてはというレベルではない。

なにより驚嘆すべきなのは、そのピアニズムがいまだに進化していることだ。悠然とピアノを鳴らし、音色を自在に変化させ、ここぞという時に果断に技巧を発揮するが、そこに作為は全くみられない。結果、きわめて骨太で懐深い印象を受ける。

セヴラックは素朴で田園的な味わいの佳曲で、これらはまずチッコリーニの録音で親しんだものだった。今回の演奏では以前の澄ました佇まいの録音より親密で温かみのある印象だった。

ドビュッシーの前奏曲では、響きを噛みしめパッセージを着実に積み上げるようで、それにより音楽が絵画的な感覚美以上に、精神性を備えた立体的構造物として迫ってきたように思う。そのため、なにかベートーヴェンの後期ソナタやリストの作品でも聴いたような気分になった。例えば、第7曲「西風の見たもの」や第10曲「沈める寺」のドラマティックな表現とそこから喚起されるイメージはどんなピアニストの名演よりも壮大なものだったように思う。また、時折、一転して洒脱な味わいを表出したりもする。前奏曲の多面的な魅力が際立つ名演だった。

そして、絶美のタッチで奏でるスカルラッティは精神的な自由さを、十八番のグラナドスのアンダルーサは力強く人生肯定を謳っているように思えた。

音楽が演奏が上質だったという以上に、人間というのはここまで到達できるのだと感じ入り、励まされるようなリサイタルだった。優れた音楽と言うのは、本当にこういう力があるのだ。

スタンディングオベーションに包まれた終演後、圧倒された心地で隣の席の年配の男性と思わず顔を見合わせた。「凄いですね。今日のため北海道から来ました。」「こんな風に齢を重ねたいものです。私は山口から。」

ciccolini2012.jpg

テーマ : クラシック
ジャンル : 音楽

下野&札響の「ドイツ音楽」特集

3月になり大分春めいてきたと思ったが、先週土曜の札幌はあいにくの雪模様。今年度最後の札響定期に行ってきた。

第547回札幌交響楽団定期演奏会

2012年3月3日(土) 15:00-
札幌コンサートホールKitara

演奏:札幌交響楽団
指揮:下野 竜也
ピアノ:デヤン・ラツイック
コンマス:伊藤 亮太郎

曲目:
ブラームス:ピアノ協奏曲 第3番(原曲:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77 ラツイック編)
ブルックナー:アダージョ(原曲:弦楽五重奏曲 ヘ長調 スクロバチェフスキ編)
ヒンデミット:交響曲 「画家マティス」

変化球だらけの凝ったプログラム。キーワードは「編曲」だ。
下野は評判が良く、盟友アリス氏がいつも絶賛しているので気になっていた。実演に接するのは今回が初めてだ。下野はプレトークで選曲の妙について語っていて大変面白かった。

ブラームスのピアノ協奏曲第3番(本来は2番までしかない)は、ラツイック自身がヴァイオリン協奏曲をピアノ用に編曲したもので、アトランタ交響楽団とのCDも出ている。オケのパートはそのままだという。線的に歌われるヴァイオリン・ソロを鍵盤でやるのだから当然無理があるのだが、ラツイックはピアニスティックな技巧を駆使して効果的に聴かせていた。結果、原曲の渋くロマンチックな味わいよりも、ピアノとオケが細かに掛けあうアンサンブルの面白さが際立った。ピアノも上手いが、それに対するオケの反応も良く、小技の応酬が楽しい。ザグレブ生まれの気鋭、ラティックは華やかなタッチのピアニストで、かなり腕が立ち、こういうあざといことをやっても嫌味がない。シプリアン・カツァリスのような個性で、編曲の妙を楽しんだ。

一方、ブルックナーの「アダージョ」は、編曲とは思えない程にこの作曲家らしいもの。6番や8番交響曲の緩徐楽章を思い起こさせる。ブルックナー節は、室内楽曲でも交響曲でも基本的に一緒だからかもしれないが、違和感なく浸ることができた。こうして聴くと、札響の弦は厚みが増して本当に良くなったと思う。ホールの空気に溶ける澄んだ高弦が美しく、中間部の低弦の歌が沁みた。終演後、相変わらず吠えるようなブラボー屋がいて閉口したが。

そしてヒンデミットの交響曲「画家マチス」。これも大好きな傑作だが、なかなか実演を聴く機会は少ない。作曲者自身によるオペラからの編曲というのが、今回の選曲の理由だ。大変ユニークなオーケストレーションで、ゴシック建築にように積み上がる対位法的な音楽は、ナチスが批判した「ユダヤ性」よりむしろ正統的なドイツ調でユダヤ的な粘っこさは薄い。こうしてプログラムを眺めると、今回の選曲は、かなりひねた「ドイツ音楽」特集ともいえる。

下野は、各パートを膨らみのある呼吸で立体的に鳴らし、きっちりと組み上げる。これにはモダンな味わいとロマンチックな風格が両立していて、若いのにちょっと日本人ばなれしたところがある。特に気付いたのは、そうした指揮のもとで管が魅力的に鳴っていること。管の場合、呼吸に膨らみがあると特に調子がいいのだろう。札響は個性的な音色の名手がいて素晴らしいソロを聴かせてくれることも多いが、時に響きが平板になることもある。今回は木管、金管ともに伸びやかで、とりわけフルート、オーボエが素晴らしかった。

客入りは、悪天候もあり6割ほどか。内容が良かっただけに、ちょっと寂しい。


ところで、今月21日、恒例の札響の東京公演がある。
昨年、チクルスで聴いた尾高のベートーヴェンは、潔いほどに正攻法に徹したものだった。この公演は札響の今を聴くには最も相応しいものだろう。在京の音楽ファンには是非ともおすすめしたい。

ホクレン・クラシック・スペシャル
札幌交響楽団東京公演


日時:2012年3月21日 (水) 19:00 開演 (18:30 開場)

指揮 : 尾高 忠明
管弦楽 : 札幌交響楽団

場所:サントリーホール

曲目:
ベートーヴェン : 交響曲第7番 イ長調 op.92
ベートーヴェン : 交響曲第5番 ハ短調 op.67
http://www.sso.or.jp/concerts/2012/03/post-111/

テーマ : クラシック
ジャンル : 音楽

高関健&札響によるトゥーランガリラ交響曲

先週の土曜、札幌交響楽団の定期演奏会でメシアンのトゥーランガリラ交響曲を聴いてきた。

第546回札幌交響楽団定期演奏会
2012年2月11日(土)15:00
札幌コンサートホールKitara

メシアン:トゥーランガリラ交響曲

札幌交響楽団
指揮:高関 健

オンド・マルトノ:原田 節
ピアノ:児玉 桃
コンサートマスター:伊藤亮太郎


オーケストラビルダー高関健の面目躍如たる秀演で、今回をもって退任する札響正指揮者としての総決算といった感があった。オケも会心の出来だったのではないだろうか。

私は、この曲が大好きで録音は何種類か聴いたが、実演に接するのは初めてだった。この10楽章80分あまりの大作は、非常に理知的に作曲された現代音楽でありながら、調性的な音型が繰り返され、まるで映画音楽のような通俗的な面白さもある。サンスクリットから造語した「トゥーランガリラ」という題名も、ウルトラ怪獣のような奇妙な妖しさを漂わせていて、独特に艶かしい音響はオタク心をくすぐる。

ステージから溢れんばかりの大オーケストラは、13種類もの打楽器(シンバルやドラムに加えマラカスや木魚、タムタム等も。なぜかティンパニーがない!)やジュ・ド・タンブル、チェレスタ、ヴィブラフォンを含み、それにピアノと電子楽器オンド・マルトノが加わる独特の編成で壮観だ。

実演に接して感じたのは、オーケストラの響きの妙。これはなかなか録音では分からないものだ。これだけの大オーケストラが、後期ロマン派のように厚ぼったくならずに隅々まで色彩的によく鳴っていて、様々な楽器の音色が塗りつぶされずにクリアに聴き取れる。正直、もっとケバケバしい音楽かと思っていたが、全体を通し響きが澄んでいて古典的な趣すら感じた(高関はプレトークで主要な音型、旋法、リズムについて説明し、「バッハを思わせる」と述べていた)。

これはメシアンの作曲の妙と共に、高関の緻密な組み上げの成果だろう。素人の耳にも高関が複雑なスコアを徹底的に分析して、見通しのよい流れに整理していたことを感じた。特に何層にも絡みあうリズム処理の鮮やかさは感嘆するばかりだった。

二人のソリスト、ピアノの児玉桃、オンド・マルトノの原田節は、さすがにこの作品を熟知した第一人者だけあって説得力があった。児玉のピアノは豊かな音色と鮮やかな技巧で強靭な要となっていたし、原田のオンド・マルトノは楽器の珍奇さ以上に表現の豊かさが印象的で、オーケストラの中での独特の音の浮き立たせ方が見事だった。

それにしても、ここ数回の高関による札響公演は一層良くなったように思う。それが指揮者のせいなのかオケのせいなのかはわからないが。高関は持ち前の堅実な構成感に加え、これまで以上に色彩感が出てきたように思う。これからも札響とは良い関係を保ってもらいたいものだ。

※ちなみに高関氏のTwitter記事によると、この曲を氏のレパートリーに加えたとのことだ。またいつかどこかで聴けるかもしれない。

テーマ : クラシック
ジャンル : 音楽

これぞ新世界!~エリシュカ&東フィルを聴く

先週末から上京し、エリシュカ&東フィルによる演奏会を聴いてきた。東フィルはエリシュカが日本デビューを果たした時に客演したオケであり、両者は実に6年ぶりの再会となる。

●東京フィルハーモニー交響楽団  第795回オーチャード定期演奏会
2010年12月5日(日) 15:00開演(14:30開場)
Bunkamura オーチャードホール

指揮 : ラドミル・エリシュカ
管弦楽 : 東京フィルハーモニー交響楽団
曲目:
 スメタナ / 歌劇『売られた花嫁』より3つの舞曲
 スーク / 組曲「おとぎ話」 作品16
 ドヴォルザーク / 交響曲第9番「新世界より」 ホ短調 作品95

(アンコール)
 ドヴォルザーク / スラヴ舞曲第15番 ハ長調op.72-7


『売られた花嫁』の舞曲は、つい先週、札響で聴いたばかりなので、オケの個性による差が興味深かった。札響は響きが軽い分、室内楽的な繊細さに優れ、民俗的な風合いが魅力的で、例えば弦を弓でパンとはじいたりする部分で小技が効く。しかし、ヤナーチェクでは正直もう少し強靭さが欲しいところもある。一方、東フィルは重く厚い響きで、若干もっさりとしており、指揮者と付き合いが長い札響に比べると細かな呼吸への反応は一歩譲るが、高弦など芯があって伸び、全体にダイナミックなのが好ましい。この曲でもスラヴ的な情感よりむしろシンフォニックな迫力を感じるものだったように思う。エリシュカの解釈は、いずれのオケでも揺ぎなく、きっちり鳴らしていた。

ドヴォジャークの娘婿、ヨゼフ・スークは内気で繊細なロマンチストといった個性の作曲家。22才の作品「おとぎ話」はドヴォジャークのような民俗的な要素は少ないが叙情的な味わいはいかにもチェコ的で、地味ながら時折はっとするような色彩が現れる。そして、その色彩の滲み方はフランス音楽などと違って実に慎ましやかなものだ。この曲のそんなニュアンスをエリシュカは、フレーズを発する時の微細な間、音の置き方等、老練な技を駆使して丁寧に聴かせた。ヴァイオリンのソロが活躍する曲だが、東フィルはコンマス荒井英治を軸に洗練された演奏を展開し、この公演の中では最も完成度が高かったように思う。

そして、”通俗名曲”「新世界」。この作品が名曲であることは私も異論がないのだが、あまりに旋律の効果が表立っているため少々鼻白む印象もあった。実際、クラシック愛好家には、「新世界」をお気に入りとするのは照れくさく、8番や7番を評価するほうが”通”とする向きもあるだろう。だが、ドヴォジャーク研究者のほとんどは、この曲を円熟したシンフォニイストの到達点と評価している。そんなこともあり、私がドヴォジャークに凝って調べるほどに、この作品をどう位置づけるべきかが気になる問題として膨らんでいた。今回、無理をして北海道から上京したのも「新世界」の真価を早く確かめたかったからだ(来春の札響定期は「スターバト・マーテル」なので、とても待ちきれない!)。

期待通り、チェコ・ドヴォジャーク協会会長であるエリシュカの演奏は耳慣れたこの曲の精巧さを改めて示すものだった。例えば2楽章、イングリッシュホルンで奏される主題「家路」を支える弦の弱奏。通常なら伴奏として扱われるこういう部分を若干遅目のテンポで丁寧に歌う。それにより副旋律が鮮やかに示され、内声部まで隅々歌い、テクスチャが豊かに反響していく。結果、旋律の魅力が大きすぎるがゆえにフラットな印象だった音楽にグッと奥行きが生まれ、独特のスケール感がでてくる。3楽章などまるでブルックナーのスケルツォのように何か巨大なものが鳴動しているようだ。ドヴォジャークの総決算的な作品だというのが納得出来る内容で、先達(ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、ワーグナー等)の影響とスラヴ、アメリカ的な要素がハイブリットしていて、細部に至るまで無駄がなく感興に結びついている。引き締まったアンサンブルにより各楽章の描き分けも巧みで、循環形式による統一感も十分だった。

面白いのはエリシュカが特別な個性を発揮しているわけではないこと。これまで札響と聴かせた5、6、7番のように誠実さに徹した演奏だが、そこから生まれる演奏はユニークそのものなのだから、まだまだドヴォジャークは奥深いのだろう。「新世界」には膨大な録音があるが、チェコ人によるものも含めて、このような演奏は聴いたことがない。本当にこの曲は演奏が難しい作品だ。今回の東フィルとの演奏はシンフォニックなスケール感があった反面、チェコ的な味わいは薄目だったので、札響とならチェコ的な性格がより強く現れ、違った面を見せることだろう。録音も含め、今から楽しみだ。

演奏会後、関根日出男先生樋口裕一さんISATTさんアリスさん等、当会会員数名とお会いしたが、皆、口々に「新世界で涙が出るとは思わなかった」「いままで聴いてきた新世界はなんだったんだろう」と興奮混じりに語っていた。

終演後、マエストロを訪ね、こう挨拶した。
「ありがとうございます、マエストロ。今日初めて新世界を聴きましたよ!」

テーマ : クラシック
ジャンル : 音楽

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Author:Pilsner
発話旋律 "Speech Melody"
日本ヤナーチェク友の会公式サイト管理人Pilsnerのブログ
チェコ音楽を中心にした音楽雑記帳です。
The blog by the chief manager of Janáček Association Japan
http://twitter.com/#!/janacekjapan

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