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独房の中のイェヌーファ~新国立劇場『イェヌーファ』を観て

新国立劇場の『イェヌーファ』初日を観てきました。以下、感想メモです。演出に関してネタバレを含みますのでご了解ください。

***
ヤナーチェク:歌劇『イェヌーファ』
新国立劇場
2月28日(土) 14:00~
http://www.nntt.jac.go.jp/opera/jenufa/
https://www.youtube.com/watch?v=jBLGP50bDh8&feature=youtu.be

クリストフ・ロイ演出の舞台装置はきわめて簡素である。冒頭、コステルニチカは看守に連れられ舞台に登場する。彼女は嬰児殺しの罪で逮捕され拘置されるところなのだ。そこは真っ白な壁に囲まれ、小さなテーブル以外何もない殺風景な空間。ドラマはその独房の中の彼女の回想から始まる。イェヌーファやブリヤ家のお祖母さんは、回想するコステルニチカの傍らに現れ、曲が始まる。

この真っ白で殺風景な空間は、多少のアレンジはあるが、全幕を通じて舞台を占める。それは寒村の因習的な閉塞感を表すと共に、登場人物間で共感できる背景を欠いていることを表しているのだろう。コステルニチカはイェヌーファを愛し、イェヌーファはシュテヴァを愛し、ラツァはイェヌーファを愛するが、それらは第3幕の最後でコステルニチカが告白するように相手への思いやりを欠いた身勝手な感情にすぎないのかもしれない。第2幕のコステルニチカの小屋では、出産したイェヌーファが隠され守られているのだが、精神病患者が監禁・隔離されているようにも見える。

ラストでイェヌーファとラツァは白い空間から抜け出して暗闇に向かっていく。これは閉塞からの脱出という点では希望だが、やはり背景を欠いた黒。二人の将来に共感や希望があるのかは不明だ。これは観客に安易な情緒的解決を与えない、辛口の演出と言えるだろう。

この演出はベルリンドイツオペラにおける上演がDVDになっている。主要なキャストも今回の新国の上演とほぼ重なる。このDVDは、グラミー賞にもノミネートされ評論家の評価はとても高いようだ。私もこれを観て今回の上演に臨んだ。

率直に言って、私はこの演出には当初かなり抵抗感があった。衣装は現代風だが奇妙な読替を行っていないので、ドラマの本筋を外れたものではない。とは言え、舞台セットがあまりにシンプルなので演出家の意図は汲めるが、視覚的に単調に思われた。『イェヌーファ』が本来持つ地方色を容赦なく切り落とした演出は、作品本来の味わいを減じているように思えた。『蝶々夫人』が日本という文脈から離れられないように、『イェヌーファ』もモラヴィアの民俗性から離れて欲しくないと思った。そんなモヤモヤを抱えながら、新国の上演に臨んだ。

結果、素晴らしく感動的な上演だったと思う。
2幕くらいから胸が詰まって、ただただ鼻水を垂らしながら泣いていた。DVDの印象とどこが違うのか。それは、チェコ人指揮者トーマス・ハヌスの解釈がこの作品本来の演劇性を強化し、辛口の演出と相乗したことによる。

ヤナーチェクのオーケストレーションは独特の響きがする。CDで耳に馴染んだ作品もライヴで聴くと意外な発見が多い。今回もそうだったが、特にハヌスはチェコ語が母国語だけあってオケと言葉との絡みが優れていたように思う。ヤナーチェクのオペラは、朗々としたアリアや二重唱の旋律で聴かせるわけでも、分厚く雄弁なオケの響きで聴かせるわけでもない。ポツンと心情を吐露した短い一言にこそヤナーチェクの音楽の醍醐味がある。オケの響きはむしろ薄く、旋律的な流れとは異なる表現的な音型が混じる。「私の心は復讐に燃えている」とか「恋心に胸が張り裂けそう」というようなドラマチックな文句ではなく、「私はお前に賭けていたのに」「人生ってこんなものだとは思わなかった」「小さい頃からあいつばかり可愛がって」というような言葉が胸に迫ってくるのが『イェヌーファ』の魅力だ。美しい旋律が多いがほとんどは短く、情緒的気分を引きずらない。音楽に詞が付いているというより、台詞に節がついている風だ。ハヌスはそんなヤナーチェクの特徴を熟知しスコアを読みこんでいるように思えた。並の指揮者なら何気なく通りすぎる一節もテンポを落として丁寧にオケと噛み合わせる。そうすると繰り返される表現的な音型が浮き立って心理的効果を生む。そして随所で、たっぷりと沈黙の間をとる。その間の後、無伴奏で歌が入る箇所が多いが、何とドラマに真実味がこもっていたことか。それは簡素な舞台だからこそモダンな表現として活きるところも多々あった。東京交響楽団は、ヤナーチェクの主要作品をセミステージ形式で上演した実績があるだけにツボを押さえた優れた演奏で、第2幕におけるヴァイオリンソロも美しかった。

歌手は総じて大変良かった。DVDで観たベルリンドイツオペラの上演よりずっと良い出来だった。ベルリンの上演では、オケと言葉の絡みに若干齟齬があったため、実力派の歌手達はもっと語って欲しいところまで歌詞として歌い過ぎていた。そこがどうも不満だった。今回の上演では、言葉が上手くはまっていて、言葉と結びついた演技も光る。

タイトルロールのミヒャエラ・カウネは、イェヌーファの精神的成長をよく表現していた。第1幕では若い娘らしい浮薄さと共に継母譲りの思慮も備えている。第2幕では不安定なシングルマザー。第3幕では苦難を受け止めながら他者に赦しを与える存在。そういうフラットではない女性像を柔らかく丸みのある声で丁寧に歌い、語り、演じていた。ベニャチコヴァーやマッティラと共に重要なイェヌーファ歌手だと思う。

ラツァ役のヴィル・ハルトマンも、第1幕は嫉妬に駆られた捻くれ者だが、2幕以降は罪を悔いイェヌーファに献身する男を好演し、特にイェヌーファとの対話の場面で彼女に語り掛ける柔らかい歌唱が感動的だった。

コステルニチカ役のジェニファー・ラーモアはパワフルな歌手だが、DVDでは歌い過ぎていてやや平板に思われた。だが今回の上演では、硬直した役柄が上手くオケの響きにはまって歌唱にならない台詞のような部分(例えば第2幕の幕切れ「死神が覗き込んでいるよう!」等)の表現にも凄味があった。

シュテヴァ役のジャンルカ・ザンピーエーリは、「ゲスの極み」な「チャラ男」を好演してキャラ立ちしていた。同じテノールのラツァと好対照で声質にも楽天的な甘さがあり良かった。

そして流石に貫禄だったのは、ブリヤ家の御祖母さんを歌った72歳の名歌手ハンナ・シュヴァルツ。端役なのだが、深い響くメゾソプラノの存在感に驚いた。

日本人歌手も皆、好演しており、村長(志村文彦)やカロルカ(針生美智子)が印象に残った。合唱も優れており、特に群衆としての活き活きとした動きが見事だったと思う。

***

今回、ヤナーチェク作品を取り上げ、プレイベントまで開催して下さった新国立劇場のスタッフの皆様には心から感謝いたします。おかげさまで、今回の上演に合わせ当会の対訳解説書を増補改訂の上で出版することができました。今後も我が国でヤナーチェク作品が上演されることを強く期待します。
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テーマ : クラシック
ジャンル : 音楽

エリシュカ&札響による渾身の「悲愴」

毎年恒例、春のエリシュカ祭り。マエストロは、4月6日で83歳になった。エリシュカが誕生日を札幌で祝うのは今年で7回目である。

私は例年通り2日とも聴いてきた。

札幌交響楽団第568回定期演奏会

2014年4月11日(金) 19:00~
2014年4月12日(土) 14:00~

会場:札幌コンサートホールKitara

指揮 ラドミル・エリシュカ(首席客演指揮者)

曲目:
ベルリオーズ:序曲「ローマの謝肉祭」
ヴォジーシェク:交響曲 ニ長調 Op.24
チャイコフスキー:交響曲第6番ロ短調「悲愴」

まず、1ステのベルリオーズから、オケが惚れ惚れするくらい良く鳴っていて、華やかで活きがよい。アンサンブルがクールに引き締まっている。その音楽の推進力は、やはり勢いに任せたものでなく、期待通りの快演だった。

ボヘミアの作曲家、ヤン・ヴァーツラフ・ヴォジーシェク(Jan Václav Voříšek, 1791- 1825)の交響曲は、チェコではよく知られており、録音も幾つかあるが、国外で演奏されることは極めて稀である。我が国では、以前、N響がサヴァリッシュの指揮で演奏し、アマオケも何度か取り上げているという。

ヴォジーシェクは、1791年(モーツァルトの没年、ツェルニーの生年)にボヘミア東部のヴァンベルクで教師の息子として生まれ、プラハでトマーシェク、ウィーンでフンメルに師事した後、ウィーンで活躍し、宮廷第2のオルガニストとして活躍し、音楽サロンに参加して交友範囲を広げたという。特にベートーヴェン(1770-1827)を敬愛し、シューベルト(1797-1828)とも親交があったが、肺結核のため34歳で没している。古典派の時代には、数多の交響曲が書かれ、今ではハイドン、モーツアルト、ベートーヴェン以外の作品はほとんど埋もれてしまったが、この作品はもっと聴かれてもよい佳曲だろう。

めったに演奏されない曲だけに、1日目はまだこなれない部分が残っていたが、2日目の完成度は十分だった。やはり、オケが良く鳴っていて、弦、管、打のコンビネーションがとても良く、ロマン派に片足を入れつつある後期古典派の表現性が光っていた。ベートーヴェンを思わせる第3楽章のスケルツォでは、弦楽群の凛とした雄弁、木管の空気感、それにティンパニが気持ちよく鳴っていたのが印象的だった。

だが、なんといっても白眉は、「悲愴」だろう。エリシュカは、チャイコフスキーを得意としていて、チェコスロヴァキア時代にカルロヴィヴァリ響を指揮していた頃、海外公演でしばしば第5、第6交響曲を演奏して絶賛を博したという。エリシュカが、日本でチャイコフスキーの交響曲を演奏したのは、2008年4月に東京オペラの森音楽祭で都響と第5番を演奏して以来で、これが事実上の東京デビューだった。エリシュカが「悲愴」を日本の聴衆に披露するのはこれが初めてだ。

エリシュカは、カリスマ的な個性派というよりは職人的な音楽家で、彼の音楽に付き合っていると、どのような音楽になるか何となく予想できるように思えるのだが、実演に接すると意外性に驚き、納得させられることが多い。毎度、プラハ音楽院の教授からこの作品は本来こうなのだよと教わっているように思う。前回の札響定期のブラームスの交響曲第3番もそうだったが、はたして今回も驚嘆すべき演奏だった。

チャイコフスキーというと、非常にロマンティックで情緒的なイメージで、特に『悲愴』は題名のとおりロシアの憂愁に満ちた交響曲という印象をもっていた。しかし、エリシュカの『悲愴』は、もっと硬派なパッションとラメントの音楽だった。

第1楽章は、序奏部の第1主題のフレーズは、厳しいリズムで絞られている。芯の確かな弦の刻みはレガート気味にならない。このため、この執拗な反復はさざめくような甘さよりもザラリとした感触があり、ミニマル音楽のような幻惑性を帯びる。視覚的にも聴覚的にもオーケストレーションが明快に見える演奏だ。そして現れる第2主題は、ちょっと拍子抜けする位に甘さひかえめだが、その抑制がむしろ真摯な強さを与えていた。そして、その後の展開部は怒涛のようで、アンサンブルの集中力にとにかく圧倒された。

優雅な第2楽章も、やはり甘さはひかえめで上品だが、きっちりとしたワルツは実に薫り高い。エリシュカの意を汲み、この抑えた旋律のニュアンスを表すのが、札響はとても巧い。長年の付き合いはダテじゃない。この味は、なかなか他のオケでは出ないのではないか。

そして迫力の第3楽章は、リズムが強靭でオケが存分に鳴っている。この楽章も、ややもすると単調な繰り返しのようになりがちかもしれないが、全体の構成設計が巧みで、随所で面白い効果をあげていた。

第4楽章も、やはり情緒的な悲嘆に流れるよりも、もっと直截的なパッションを感じた。多くの演奏がそうであるように、弦楽をたっぷり膨らまして歌わせることはあえてしないが、決してオケが鳴っていないわけではない。リズムの鋭さや、音色が冴え、その質感が強い響きを生んでおり、引き絞るように歌う。時折、意外な音色が浮き立ち、奇妙な効果を与える。ヤナーチェクの管弦楽でも響きは厚くならず、弦や管の尖がった音色にハッとするような表現性が感じられるが、この「悲愴」もそういう箇所がいくつもあり驚かされた。例えば、最後に静かに終結するときコントラバスの音がグロテスクに残るところなど。以上、全体に筋が通った、あくまで辛口の解釈だった。

1日目の演奏は、異様な位のテンションで、解釈の意外性もあり衝撃を受けたが、2日目は、もう少し平静に聴くことができ、オケの響きも1日目より硬さがとれていたと思う。

正直、「悲愴」はこれまで好んで聴く曲ではなかったが、根本から聴き方を改めさせられた。これは渾身の名演だったと思う。指揮者とオケに気押されたのか、聴衆のマナーも随分良かった。

エリシュカというのは、髪を振り乱して主情的な解釈をするタイプの音楽家ではないのだが、オケを鍛え上げアンサンブルを突き詰めたところで、意外なほどの表現性を発揮する。それに見事に応える札響も立派である。本当に札響もここまで来たかと、定点観測してきた地元ファンとして感慨深かかった。

今回の公演は録音が入っていたのでCDになるだろう。

eliska&sso201404

テーマ : クラシック
ジャンル : 音楽

エリシュカ&札響のオール・ドヴォジャーク・プロ2013を聴く

エリシュカが誕生日を札幌で祝うのは今年で6度目である。4月6日で82歳になった。マエストロが2008年に札響の首席客演指揮者に就任して以来、ライヴ録音とともに着実に積み重ねてきたドヴォジャークの交響曲チクルスもいよいよ大詰めの8番となる。マエストロは4番以前を習作的な作品と見做しているので、このチクルスはひとまず区切りを迎えるだろう。

私は、今年も両日聴いてきた。


札幌交響楽団 第558回 定期演奏会
~R.エリシュカ チェコ音楽シリーズvol.6~

2013年4月19日(金) 19:00~
2013年4月20日(土) 15:00~

会場:札幌コンサートホールKitara

指揮 ラドミル・エリシュカ(首席客演指揮者)

曲目:
ドヴォルジャーク
序曲「自然の王国で」
交響詩「水の精」 op.110
交響曲第8番ト長調op.88
eliska&sso201304


エリシュカの流儀は、今回もこれまでと特段変わらない。響きを引き締めて各声部を浮かびあがらせ、リズムを丹念に整えて、楽句間の連関を浮き彫りにする。聴くたびに、やはりそうかと腑に落ちつつ、本来そうだったのかと新鮮な刺激を受けることになる。しかし、6年間にも渡るチクルスの中で変わったこともある。

私はこれまでファンとして札響以外との公演も含めエリシュカを追いかけ、彼の様々な面を観てきた。

一つは、生真面目で妥協のないプロフェッショナルとしての顔。
エリシュカは、本番前にはホテルに籠って譜読みに没頭し、練習はみっちり微に入り細に入りやる。チェコ人だから、お国モノのドヴォジャークが得意で、お茶の子さいさいという訳では決してない。彼にとって本番は今も挑戦なのだ。それが若さの秘密でもあるのだろう。

一つは、チェコそして中欧の伝統を受け継ぐものとしての顔。
エリシュカは、ブルノでヤナーチェクの高弟、バカラの教えを受け、ターリヒなどの歴史的巨匠と接してきた。彼の振る音楽には、交響曲は無論、ちょっとした舞曲や行進曲などでも、古き中欧の薫りがする。こんな音楽家は今ではそう多くはあるまい。そして、過去の遺産を受け継ぐものとして後進の指導にも力を入れてきた。フルーシャ、ネトピル等、現在頭角を現しているチェコの気鋭たちも、皆、彼の教え子だ。

一つは、鋭敏な感覚のモダニストとしての顔。
エリシュカは卓越した譜読み力によりチェコの現代作曲家から絶大な信頼を受けていて、現代作品の初演を多く手がけている。また、現代曲ばかりでなく聴き慣れた作品に現代的な印象を受けることもある。当人は特別な解釈を志向している訳ではないのだが、しばしば、新鮮な表現性に驚かされるのだ。

そして今回強く感じたのは、慈愛に満ちた信仰者としての顔である。

繊細な問題だけにマエストロに宗教について詳しく尋ねたことはない。チェコはヨーロッパでも無神論者が多い国だが教会が彼のキャリアの出発点になっただけあって、確かに信仰心をもっているようだ。共産主義時代には当局から信仰について非難されたとも伺った。しかし、彼は「神よ、神よ」と言うような人ではない。また宗教的な雰囲気を意図的に演出するような音楽家でもない。しかし、ここ最近の札響との演奏は、世俗を超えた崇高さや慈愛が色濃く滲むようになった。

宗教的な響きといえば札響定期で数年前に聴いたハンス=マルティン・シュナイトをふと思い出した。あのとき、オケの響きは教会で響く聖歌のように声楽的にブレンドされ独特な色合いになっていた。シュナイトが教会音楽を得意とする敬虔なルター派信者だったということもあるのだろう。しかし、面白いことに、シュナイトは、リハーサルで口汚く団員を罵倒しまくる暴君だったそうだ。確かに、あのときは響きは美しかったが、オケはあまり鳴っていなかった。オケの個性を磨り潰して自分のイメージする響きに造形するタイプなのだろう。

一方、エリシュカのアプローチは、声楽的というよりも徹底して器楽的だ。晩年のバーンスタインのように過剰なまでに思い入れを込めて粘るように歌わせるという訳でもない。ゲルハルト・ボッセがそうだったように、老いを特に意識させることなく、基本的に溌剌としたテンポを保っている。しかし、近年は以前よりふくよかで悠然とした響きになり、ヒューマンな味わいが濃くなっているように思われる。

この理由として考えられるのが、マエストロの芸の円熟は無論、札響との関係の深まりだ。オケはマエストロの意図を汲み、迷いや躊躇いがなく思い切って音を出しているのが分かる。端的に言って音量が増し、表現の幅が広くなった。マエストロの棒も細かく指示するよりもオケを信頼して任せる余裕がでてきたように思える。オケと指揮者の間には単に気心が知れているという以上に共有するものがある。それは、他のオケとの共演では感じられないものだ。そして、演奏者の間で交わされる信頼感や共感が、作品が本来もつ温かみを増幅させているようだ。エリシュカ自身も、チェコスロヴァキア時代はカルロヴィヴァリに留まり一つのオケとじっくり付き合ってきたので、そういう関係の方が力を発揮しやすいのではないだろうか。

そうした味わいは、これまでもシンフォニエッタやスターバト・マーテル、第九や「新世界」で聴かれたが、今回は特に8番、第2・3楽章で顕著に感じられた。

第2楽章は、田園的な詩情と、音響の立体感・構成感がバランスした格調の高い音楽である。不朽の名盤として名高いセル&クリーブランド響の録音でこの楽章を聴くと、独墺音楽的な性格を主にするリリシズムが感じられる。今回、エリシュカは、セルのように辛口でありながらもオケの響きを丸くまとめ、旋律を柔らかく膨らまして声楽的な感触をも引き出す。そして、小鳥の囀りのような管の瑞々しい呼応が美しいこと。このバランスが絶妙だ。

そして、美しい3楽章は名人芸の極致といえるものだった。ややもすると通俗に堕するおそれがある憂愁の旋律がなんと上品で自然なことか。慎ましやかでしみじみと噛みしめるような佇まいにドヴォジャークへの深い共感が感じられた。

そして、終楽章、首席トランペット奏者の福田善亮によりファンファーレがホールに大きな弧を描いて放たれると、音楽は祝祭的な歓喜を帯び、チクルスのフィナーレとして特別な感慨を抱かずにはいられなかった。

交響詩『水の精』も大変面白い演奏だった。ドヴォジャークの交響詩はヤナーチェクに大きな影響を与えているが、この『水の精』は、4曲の中でも特にヤナーチェクらしいオーケストレーションの作品のように思う。演奏もヤナーチェクっぽく、細かな音型の繰り返しを透けるように浮き立たせて、物語を雄弁に聞かせるような演奏だった。これは手持ちのどの録音とも違うタイプの語り口だ。なにより木管が音色豊かに個性的に歌っていたのが効果的だった。札響の木管はベテランの名手に加え、優秀な若い奏者の伸長も目覚ましく(フルートの高橋聖純、昨年国際コンクールで受賞されたオーボエの金子亜未に注目)、今後が益々楽しみだ。

こうして聴いてみると、ドヴォジャークの音楽には、親しみやすい歌謡性や民俗性ばかりでなく、深い宗教性が含まれていることが分かる。それはドイツの巨匠のような観念的なものではなく、日本人がお天道様を敬うように、崇高さを畏れる素朴な感覚によるもののように思われる。それは、ドヴォジャークの音楽が我々の心に強く訴える理由の一つでもあるのだろう。そして、その宗教性はエリシュカの人間性とも呼応し、音楽的な味わいになっているのだろう。ドヴォジャークの、そしてエリシュカの生真面目さは、プロ意識とともに多分に宗教的な信条に基づいているように思われる。

マエストロは、このチクルスを始めるにあたり「もし神様がお許し下さるのなら、ドヴォジャークの5番から9番までを札響と録音して残したい」と述べていたそうである。共産圏時代、国外に出られる指揮者はノイマン等、ごく少数に限られており、マエストロは国内の名声に比して録音の機会に恵まれなかった(ただし、現代曲の録音はあった。現在、それらは全て廃盤になっている。)。そして、1989年のビロード革命後にチェコ音楽界を席巻したグローバリズムの中、不遇だったマエストロにとり、老境を迎え、これまで培った芸を録音として残すことは悲願だった。それが札幌で成就した意味はきわめて大きい。

10月の定期では、首席チェロ奏者、石川祐支をソリストに迎えてチェロ協奏曲が演奏される。今から、とても楽しみだ。

テーマ : クラシック
ジャンル : 音楽

エリシュカ&札響の第九

年末恒例の札響の第九に今年は首席客演指揮者のラドミル・エリシュカが登場した。エリシュカがベートーヴェンの交響曲を我が国で指揮するのは今回が初めてとなる。2日とも聴いてきた。


■札響の第九

12月8、9日 15:00~ 
札幌コンサートホールKitara 大ホール

指揮:ラドミル・エリシュカ
札幌交響楽団

独唱:安藤赴美子(ソプラノ)、手嶋眞佐子(メゾ・ソプラノ)、
望月哲也(テノール)、黒田博(バリトン)

合唱:札響合唱団、札幌アカデミー合唱団、札幌放送合唱団
合唱指揮:長内勲

曲目:ベートーヴェン 交響曲第9番ニ短調op.125「合唱付き」



エリシュカの作法は、今回のベートーヴェンでもこれまでと特段変わらない。響きを引き締めて各声部を浮かびあがらせ、リズムを丹念に整えて、楽句間の連関を浮き彫りにする。しかし、それにより導き出された音楽は、私の予想を大きく超えたものだった。それは第九の奥深さゆえだろう。

第1楽章冒頭のトレモロの響きから非常にクリア、それに続く第一ヴァイオリンの開始音型は短く切り上げられ、どこか古楽風である。しかし、マエストロは昨今の古楽的解釈にはむしろ否定的だ。テンポは近頃の主流のものより遅い。しかし、それはロマンティックな重厚さのためではなく、一音一音の強度を保つための必然的な設定なのだ。

第九の第1楽章は特に奇妙な音楽だ。大体、明るいのか暗いのかも分からず感情移入しにくい曲想だろう。人間を超越したものと、生々しい精神が同居している。「歓喜の歌」を目当てに来たクラシック初心者には、さぞかし難物だろう。そして繰り返しの音型がとても多く、ブルックナーの交響曲を準備した音楽といえるだろう。

エリシュカは、響きを引き締めることでその特異性を浮かび上がらせる。芯の定まったリズムが醸し出す意味合い、弦と管が質感を保ちながら呼応する妙。札響の風合いが活きていた。加えて、古楽的演奏の多くが、ストレートなフレージングでサラリと流すところも、ふっと優しく弦を膨らまして人間的に歌い、歌が引くと新たな余韻が浮かび上がる。この巧みさにより音楽の多面性が明らかになってくる。

音楽は、その場で煽りたてて盛り上げるのではなく、精密に設計されている。「あれ、ここで緩めるの」と意外に思うとそれはその先の伏線になっている。特に面白く思ったのはクレッシェンドの効果だ。エネルギーを手元に溜めながら繰り返えされるフレーズの中でゆっくりと放出し山場を作っていく。これは響きが締まっているからこそ独特の強度をもつ。

このように、エリシュカのベートーヴェンは巨匠然とした重厚さや、勢いに任せた感情とは無縁だ。作品の本来の精密さを追求した実に清澄な演奏だった。聴く方も集中力が研ぎ澄まされ、音楽が深いところまで届く心地がする。2楽章も、3楽章も同様で、極めて情報量が多く、細かく指摘するときりがないくらいだ。

そして4楽章。この楽章も聖と俗が入り混じった不思議な音楽だ。

おそらくこの日、多くの方が驚いたのはテノールのソロによる太陽賛歌"Froh, wie seine Sonnen fliegen"の部分ではなかったかと思う。エリシュカは、この作品の中でも最も俗っぽいこの部分を田舎の軍楽隊のような長閑で鄙びた響きで始める。そこでテノールは朗々と歌い上げソロの後半で猛烈に加速し、突撃する軍隊のような男声合唱が応えると怒涛の展開になる。その後、再現する「歓喜の歌」は、テンポを緩め、たっぷりと言葉を保って歌われる。普通、ここはもっと突っ込むように歓喜の爆発を示すのが常だが、このように歌われることで「歓喜の歌」は包容的な意味合いをもち、その後の崇高な部分に繋がっていく。

そして"Seid umschlungen, Millionen!"(抱擁を受けよ、諸人よ!)から続く崇高なる合唱は、柔らかな響きで、言葉をたっぷり響かせ、まるで宗教的なコラールのように響く。このことから言っても、エリシュカは、この親しみやすい「歓喜の歌」を、民衆的な人間賛歌というよりは、一段高い汎人類的な宗教曲と捉えているのだろう。私が特に感動したのは、"Ihr sturzt nieder, Millionen?"(諸人よ、ひざまずいたか)と声を潜めて歌われる前の低弦の短い間奏で、ビオラの豊かな音色には深い慰藉が滲んでいた。そして、その後の二重フーガから展開するクライマックスも、野放図な熱狂とは一線を画す厳格なもので、合唱とソリストのアンサンブルとのバランスも絶妙なものだった。

ベートーヴェンなど古典派作品の演奏については、「19世紀のロマン派的解釈の伝統により歪められてきた、よりオーセンティックな演奏を」という新即物主義の流れがあり、それを受けて学問的成果も踏まえ古楽的解釈が登場し、アーティキュレーションを際立たせる効果などで成果を上げてきた。 今のベートーヴェン演奏はほとんど古楽的解釈を意識している。

しかし、今回、エリシュカの演奏を聴き、伝統的な解釈の中にも学問的な正当性以上に作品の本質を抉るものがあり、それが19、20世紀を通して伝統芸として、きちんと受け継がれてきているのだとつくづく感じた。そして、それは現在の古楽的解釈とも無縁ではない。エリシュカのベートーヴェンの表現性を聴いて、まず思い浮かべたのはアーノンクールだった。アーノンクールも突き詰めるタイプの音楽家だが、方法は違っても通じるものはあるのだろう。

昔の東独の演奏のようだねと評した方もいた。例えば、フランツ・コンヴィチュニーがライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を振っていたような。こういう解釈は、一朝一夕で成し遂げられるものではない。きわめて精巧な伝統芸だ。そして、それは21世紀からは消えつつあるものなのかもしれない。札幌でそういう演奏に触れられた幸せを噛みしめた。

オケは、指揮者の厳しい要求に集中力をもってよく応えたと思う。これは、エリシュカと札響との良好な関係に支えられた自発性による部分が大きいと思う。よく訓練された合唱は、発音が明確で節度があり、独唱者は一様に極めて高い水準の実力者で、ソロばかりでなく重唱の部分でも充実したアンサンブルを聴かせていたと思う。

まだまだ、書きたいことは沢山あるが、どうもキリがない。それに胸が一杯なところもある。とにかく一生忘れえない第九を聴いたことだけは確かである。

札響の第九

テーマ : クラシック
ジャンル : 音楽

ジ・アート・オブ・アルド・チッコリーニ ピアノ・リサイタル 2012

先週末、上京してアルド・チッコリーニのリサイタルを聴いてきた。

ジ・アート・オブ・アルド・チッコリーニ ピアノ・リサイタル
~ドビュッシー生誕150年記念《ドビュッシーとセヴラック》

日時:2012年12月1日(土) 15:00開演
場所:すみだトリフォニー・ホール
曲目:
 セヴラック/「春の墓地の片隅」~組曲《ランドックにて》より
       《休暇の日々から》第1集
       リヴィアのキリスト像の前のラバ引きたち
         ~《セルダーニャ》5つの絵画的練習曲
       演奏会用の華麗なワルツ「ペパーミント・ジェット」
       
 ドビュッシー/前奏曲集第1巻

《アンコール》
 スカルラッティ/ソナタ ホ長調K.380
 グラナドス/スペイン舞曲第5番アンダルーサ(祈り)


まさに、文字通りの巨匠芸、巨大な匠の芸術に胸が一杯になった。チッコリーニは今年87歳。優雅に杖をついてステージに現れ、ゆっくりとピアノの脇にそれを掛け、弾き始める。

技術的には超絶的なヴィトルオーソだった頃からすると後退した面もあるかもしれないが、それは技巧で聴かせるという性格が薄くなっただけで、まだまだ驚くべき水準を保っていた。けっして、この齢にしてはというレベルではない。

なにより驚嘆すべきなのは、そのピアニズムがいまだに進化していることだ。悠然とピアノを鳴らし、音色を自在に変化させ、ここぞという時に果断に技巧を発揮するが、そこに作為は全くみられない。結果、きわめて骨太で懐深い印象を受ける。

セヴラックは素朴で田園的な味わいの佳曲で、これらはまずチッコリーニの録音で親しんだものだった。今回の演奏では以前の澄ました佇まいの録音より親密で温かみのある印象だった。

ドビュッシーの前奏曲では、響きを噛みしめパッセージを着実に積み上げるようで、それにより音楽が絵画的な感覚美以上に、精神性を備えた立体的構造物として迫ってきたように思う。そのため、なにかベートーヴェンの後期ソナタやリストの作品でも聴いたような気分になった。例えば、第7曲「西風の見たもの」や第10曲「沈める寺」のドラマティックな表現とそこから喚起されるイメージはどんなピアニストの名演よりも壮大なものだったように思う。また、時折、一転して洒脱な味わいを表出したりもする。前奏曲の多面的な魅力が際立つ名演だった。

そして、絶美のタッチで奏でるスカルラッティは精神的な自由さを、十八番のグラナドスのアンダルーサは力強く人生肯定を謳っているように思えた。

音楽が演奏が上質だったという以上に、人間というのはここまで到達できるのだと感じ入り、励まされるようなリサイタルだった。優れた音楽と言うのは、本当にこういう力があるのだ。

スタンディングオベーションに包まれた終演後、圧倒された心地で隣の席の年配の男性と思わず顔を見合わせた。「凄いですね。今日のため北海道から来ました。」「こんな風に齢を重ねたいものです。私は山口から。」

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テーマ : クラシック
ジャンル : 音楽

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