スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

エリシュカ&札響との10年

チェコ音楽マニアを自認しているのだが、当会会員のKさんから「ラドミル・エリシュカという指揮者を知っているかい?」と聞かれた時には、その名前すら耳にしたことがなかった。ネットで検索してもほとんど情報がない、目ぼしい録音も見つからない。小国チェコにそんな大指揮者が埋もれているとは信じられなかった。

その後、件のマエストロが来日し、NHKラジオの公開収録に登場することとなった(※オケは東京フィルと名古屋フィル)。それは限定的なお披露目だったにもかかわらず聴衆にも楽員にも好評で、反響を呼んだ。しかし、無名に近いマエストロが我が国のオケの定期演奏会に客演するのはなおハードルが高かった。

そんな中、いち早くエリシュカを評価したのは札幌交響楽団だった。多くのオケから客演を断られる中、札響の音楽監督だった尾高忠明が、これは畏敬すべき音楽家だと見抜き即決したという。

2006年12月の札響定期デビューはセンセーショナルな成功を収めた。1日目の演奏が評判を呼び、2日目のチケットは完売。英語が話せないマエストロは、まだ楽員とのコミュニケーションに不自由があったが、ある楽員は初顔合わせからこれが真の「マエストロ」かと強い印象を受けたと語る。演奏会については2chなどにも絶賛の書き込みが溢れたのを覚えている(当時ツイッターはまだなかった)。その一方で無名の老巨匠の札幌での成功を懐疑的に見る向きも少なくなかった。かなり早い時期からマエストロに注目し積極的に紹介した音楽評論家は池田卓夫、岩野裕一、東条碩夫らであった。

この成功を受けて札響は直ちにマエストロを首席客演指揮者に就任させた。この決断も早かった。就任会見で「札響のよいところは?」と聞かれたマエストロは「楽員が時間通りに練習にきて、ちゃんと予習をしてくれること」と答えた。社交辞令の全くない答えにずっこけたものだ。

マエストロはそれまで長く不遇な時期を過ごしていた。敬虔なクリスチャンだったため共産主義政権の覚え目出度い人物ではなかった。プラハより政治的に寛容なブルノの音楽院に進んだのもそれが理由だった。西側で知名度が低かったのは、西側向けの看板音楽家を政権が決めていたことと、マエストロがチェコ語とドイツ語しか話せなかったことによる。ただし、国内や東側では演奏旅行を行うなど評価は高かった。共産主義政権時代は、宗教曲の公演などに関して思想的制約はあったものの、音楽家の生活は保障されており、公演の頻度も高かったという。そして指揮者が一つのオケと深く長く付き合うのが普通のことだった。1989年のビロード革命により民主化が実現すると、チェコ音楽界にも資本主義の波が押し寄せ、環境は一変した。マエストロも含めチェコ人指揮者の多くは失職し、その後釜に西側の指揮者が座った。

マエストロは、その後、プラハアカデミーの指揮科で教鞭をとり、フルシャやネトピルなど次世代の育成に努めた。そして既に70歳を過ぎ、スター指揮者でなければ実質引退の齢に縁あって日本に来た。私はたまたまその縁と近い所にいたため、素人愛好家ながらマエストロと親交を結ぶことができた。

マエストロが日本に来て驚いたのは、演奏家のモラルの高さと熱意、聴衆の熱心さだったようだ。本国では「時間通りに練習にきて、よく予習をしてくれること」すら満たされない現場も数多く踏んできた。チェコのオーケストラ関係者にマエストロの評判を聞くと「毀誉褒貶」という。音楽的に高く評価されている一方で、お仕事として割り切って生活している楽員は昔ながらの綿密な練習に閉口するらしい。また、チェコでは演奏会の模様がメディアに活発にとりあげられたり、聴衆の反応がホール以外で現れたりすることはあまりないようだ。日本人がチェコ音楽に深い関心と理解を示していることも驚きだった。

マエストロはこれまで培った芸を残すため録音を切望していた。札響との1枚目のCDが出た時には感激して「神様がお許し下さるならば、ドヴォジャークの後期の交響曲の録音を完成させたい」としみじみ語っていたという。

神様は慈悲深い。「遅れてきた巨匠」は、いまや日本中のオケに客演し成功を収めている。特に2009年のN響定期に客演し、その模様がテレビ放映された時に名声は全国に知られ評価が固まったと思う。11月には12枚目のCD(※12枚のうち11枚が札響との録音)が発売された。これで後期交響曲や交響詩集等、ドヴォジャークの主要作品、スメタナの『我が祖国』、ヤナーチェクの『シンフォニエッタ』『タラス・ブーリバ』、それに知る人ぞ知る傑作、ヴォジーシェクの交響曲(!)と、チェコ音楽定番の名曲をほぼ録音し終えて、現在、チャイコフスキーとブラームスの交響曲の録音が進んでいる。

これらの録音は、この10年間の札響の成長記録としても貴重なものだ。この成長は、エリシュカに限らず魅力的な指揮者を迎え、質の高い演奏を重ねてきたことによる。もともと名手が多いオケではあるが、明らかに音量が増し、響きが豊かになり、アンサンブルの精度が上がったことにより表現の幅が広くなった。初期の録音も遜色あるものではないが、近頃の録音は特に素晴らしい。

エリシュカCD2016


今回のCDに収められたドヴォジャークの弦楽セレナードを聴くと、エリシュカ&札響コンビの歩みを思いしみじみしてしまう。このボヘミアの歌心が染み渡ったような弦楽アンサンブルの素晴らしさ。感傷に流れず、暖かく繊細な共感に満ちている。この時の公演の後、マエストロを訪れると飛び掛かるように私の手を握って、「この弦楽セレナードは、本当に本当に難しい曲なんだよ!」とおっしゃっていたのを思い出す。

私が一つだけ残念に思うのは、マエストロの日本での活躍が本国チェコも含め海外ではまだ十分知られていないことだ。紹介のため海外の知人にCDを贈り、大変好評を得ているのだが。マエストロのドヴォジャーク解釈は、ターリヒ、ノイマンやクーベリックに続く世界標準になりうるものだと思う。

昨年、チェコの現代音楽家スデニェク・シェスターク博士にCDを贈ったところ、こんな返信をいただいた。チェコ人から見てもエリシュカ&札響の達成は驚きのようだ。

私はこのCDを数名の友人に聴かせて、誰が指揮し、どこのオケが演奏しているか当ててもらいました。皆、例外なく著名なオケだと思いました。そして私がこれはエリシュカ氏と札響による演奏だと明かすと皆がどんなに驚いたことか!

マエストロは現在85歳。仲の良い奥様とともに益々元気いっぱいである。聴衆から愛され、オケの楽員から尊敬を集め、自らの芸に打ち込んでいる。我が街、札幌との不思議な縁を思うと感慨深いものがある。
スポンサーサイト

チェコの河童

かつて森深かったチェコには、我が国同様、妖怪にまつわる怪異譚が多い。これはチェコにゲルマン人が侵入する前、ケルト人が住んでいた影響もあるのかもしれない。ケルト人が信仰していた土着宗教ドルイド教は、古神道のように自然の諸々に宿る霊魂を信じていた。ケルト人がたどり着いたアイルランドには、やはり妖精物語が多い。

アロイス・イラーセク(1851-1930)は、『チェコの伝説と歴史』(1894)中で、キリスト教布教以前の古代チェコにおいて様々な妖怪が跋扈していたことを活き活きと描いている。

村々は内も外も生き生きとして活気にあふれていた。牧場からは草笛や牧人の長い角笛の音が響き、野や草原や園では若者たちの歌声があがっていた。ただ正午になると、だれも戸外では歌わず深い静けさが訪れた。この時刻には、白い衣をまとった正午の魔女(ポレドニツェ)が明るい亡霊となって現れ、草原を通って人々の住んでいるところにやってきては、世話の行き届かない子供を殺すのであった。また巨大な頭で両目の色の違う醜い山女(ヂヴァー・ジェナ)が現れ、人々を激しく泣かせたり、美しい森の精(レスニー・パナ)が、金髪の頭に花輪を載せ、雪のように白い衣に身を包んで現れたりした。

この他にも人々が恐れたものは、人々に眠気を催させ、その目玉をくり抜く鬼婆(イエジェンカ)や、沼や湿地で青い炎となって燃える幽霊であった。また同様に人々が恐れてさけて通ったのは、湖や森の中の深い池であった。そこでは河童(ヴォドニーク)が、姿を変えて木や草の陰で待ち伏せしていたし、また青白い顔の水の精(ヴォドニー・パナ)が緑色の服を着て人々を死に誘っていたからである。
アロイス・イラーセク著 浦井康男訳『チェコの伝説と歴史』 p13-14)


ドヴォジャークが交響詩にした、カレル・ヤロミール・エルベン(1811-1870)の物語詩集『民族伝説の花束』(通称『花束』)は、1853年にプラハで出版されたもので、チェコ文学史上、特に重要な作品である。13編からなる物語詩の内容は、エルベンが民間伝承から採取した怪異譚が主で、いわばチェコ版の「遠野物語」といえるものである。

ドヴォジャークは、新世界交響曲の大ヒットで器楽作品の大家として名声を確立した晩年、劇音楽の創作に専念した。彼は熱烈なワグネリアンだった若い頃から劇音楽で成功するのが生涯の夢だったからだ。彼が、米国から帰国した翌年の1896年に作曲したのが、このエルベンの『花束』による交響詩集で、『水の精』、『真昼の魔女』、『金の紡ぎ車』、『野鳩』の4曲からなる。

このうち『水の精』が、今月、ラドミル・エリシュカ指揮、札幌交響楽団により演奏される。

札幌交響楽団 第558回 定期演奏会
~R.エリシュカ チェコ音楽シリーズvol.6~

2013年4月19日(金) 19:00~
2013年4月20日(土) 15:00~

会場:札幌コンサートホールKitara

指揮 ラドミル・エリシュカ(首席客演指揮者)

曲目:
ドヴォルジャーク
序曲「自然の王国で」
交響詩「水の精」 op.110
交響曲第8番ト長調op.88
Eliska201304


「水の精」とはヴォドニークVodníkと呼ばれる妖怪で、いわばチェコの河童である。これに類する河童伝説はスラヴ世界に広く存在する。

チェコのヴォドニークは、髪と眼の色は緑色、大きな口、鍵鼻をした小男で、緑色の帽子に黄色いズボン、金色のボタンを付けた裾の広い外套といういでたち、その左袖からは常に水が滴っているとされており、よくナマズに乗って動き廻るが、河童と同様に水気がないと力を失う。海のないチェコでは、川や沼、湖や池のほとり、水の深みや水車屋の水路、人気のない淵などを棲家としており、魚や蛇、蛙に変身でき、人を溺死させて魂を壷に集めていると伝えられる。居酒屋などに姿を現して冗談を言い、機嫌がいいと水車屋の仕事を手伝い、大好きなミルクを貰ったりするが、水車を止める悪戯などもする。馬に変身し誰かがそれに跨ると、そのまま水中に飛びこむ。リボンや鏡を餌に、乙女を沼地の危険な場所に誘い出す。日本の河童と同様、恐ろしい面と共に愛らしくユーモラスな面も備えているらしい。ヴォドニークを捕らえるには、樹皮の紐で縛るしかない。ヴォドニーク 除けの植物はシダやヨモギで、湿った尻尾を切ったり、ロザリオを巻きつけ墓地や十字路に埋めるとよい。

ラダ1944年作 「紫煙を吐くヴォドニーク」
ラダ1944年作 「紫煙を吐くヴォドニーク」

エルベンの「水の精(ヴォドニーク)」は、『花束』の他の詩と同様、救いのない話だ。湖畔でヴォドニークにさらわれた娘が水底で無理に妻にさせられ子供をもうけるが、母親に別れを告げるため一時、里帰りする。だが、母親は娘をヴォドニークの元に返さず、怒ったヴォドニークは赤子を惨殺するという筋だ。

ズデニェク・フィビヒ(1950-1900)は、1883年にこの詩による同名のメロドラマ(※音楽付きの劇、メロディ+ドラマ)を書いており、ドヴォルジャークが交響詩の後に作曲したオペラ『ルサルカ』(1900年作、クヴァピル台本)では、タイトルロールの父親としてヴォドニークが登場する。イラーセクの「ルツェルナ」(1905年作)では、権力に反抗する勇敢な若い粉屋が主人公で、端役として老若二人のヴォドニークが登場するが、これをヴィチェスラフ・ノヴァーク(1870-1949)が4幕オペラ『ルツェルナ=角灯』(1922年作)にしている。

ちなみに、ドヴォジャークは、このような怪異譚を特に好んだようで、カンタータ『幽霊の花嫁』という作品も書いている。これは亡くなった恋人に墓地で誘拐される花嫁の物語である。他に怪談好きの作曲家といえば、やはりボヘミア生まれのマーラーが思い浮かび、『嘆きの歌』や『子供の不思議な角笛』にもその手の話に基づくものがあるし、交響曲のグロテスクな表現にも怪奇趣味が滲んでいる。ボヘミアには怪談好きの伝統があるのかもしれない。


水の精(ヴォドニーク)       

(1)
湖畔のポプラの木の上に、夕べヴォドニークが坐ってた;    
「月よ、明るく照らせ、わが針仕事のはかどるよう。
わしの縫う靴は、乾いた土の上、沼でも履ける; 
月よ、明るく照らせ、わが針仕事のはかどるよう。 
きょうは木曜、あすは金曜・・わしは上衣を縫い続ける;
月よ、明るく照らせ、わが針仕事のはかどるよう。      
緑の上衣に、赤い靴、あす嫁御をもらうのだ;       
月よ、明るく照らせ、わが針仕事のはかどるよう」

(2)
翌朝、乙女は早起きし、洗い物をひとまとめ;
「母さん、湖へ行って、スカーフを洗ってくるわ」
「ああ、湖へなど行かず、きょうは家にいて!
ゆうべ悪い夢を見たから;娘や、水辺に近づかないで。
夢で真珠を選んでやり、お前を真っ白に着飾らせた、
スカートは水の泡そのもの;娘や、水辺へ行かないで。        
白いドレスには悲しみ、真珠に秘められるは涙、
金曜は不幸な日:娘や、水辺へ行かないで」・・
娘はなすすべもなく、たえず湖へと駆られる、
たえず何かにせかされて、家には娘を惹きつける物はない・・
娘が最初のスカーフを水に浸すと・・乗ってた小橋がふいに崩れ
若い娘の姿が消えたあとに、深みで水が渦巻いていた。
波が下から湧き上がり、水面いっぱいに広がった;
岩場近くのポプラの上で、緑一色のヴォドニークが手を叩く。      

(3)
楽しみもなく悲しい、この水の王国;
睡蓮の下草の中で、魚たちが戯れている。
陽の光に暖められず、ここでは風もそよがない;
冷たく静か・・まるで、望みなき心の悲しみ。
楽しみもなく悲しい、この水の王国;
薄暗くわずかな明りの中で、刻々と日々が過ぎてゆく。
広いヴォドニークの屋敷は、豊かさでいっぱい;
だが知らぬ間に、客足は遠のくばかり。
ひとたびこの水晶の門を、くぐる者は、
またとこれを目にすまい、その澄んだ眼で・・
ヴォドニークは門の間に坐って、網を直し、
若い妻は、幼な子をあやしている。
「眠りなさい、いとし児よ、望まれず生まれてきた坊や!         
あんたは微笑みかけるが、私は悲しみで死に絶えそう。
あんたは嬉しそうに、双手をさしのべるけど;
私が見たいのは、地上の墓に横たわるわが姿。
教会の裏手の地の下、黒い十字架のそばで、
そしたら大事な母さんが、やって来てくれる。
眠りなさい、わがいとし児、私の小さなヴォドニークよ!
どうして忘れられよう、可愛そうな母さんを?
憐れな母さんは、私をだれに嫁がせたかったの?
だがその当ても外れ、私を家から出してしまった!
私はもう嫁いでしまった、間違ってたけど;
仲介人は・・黒い蟹たち、付き添う乙女は・・魚たち!
そして夫は・・ああ何と!大地の上をずぶ濡れでさ迷い、
湖の中で小さな壺に、貯めこんでるは人の魂。
眠りなさい、わがいとし児よ、緑の髪をした坊や!
あんたの母さんが嫁いだ所は、愛の棲家じゃなかったの。
巧妙でずるい網に、かすめ取られた私、
ここには何の喜びもない、あんたの他はね、いとし児よ!」
「妻よ、何を歌ってる?そんな歌はやめるんだ!
呪わしいその歌は、わしの怒りをかき立てる。
妻よ、何も歌うな、体の中で怒りが煮えたぎる          
さもないと魚にしちまうぞ他の奴らと同じように!」・・
「どうか怒らないで、ヴォドニーク、わが夫よ!
私のことを悪くとらないで、踏みにじられたこのバラを。
私の瑞々しく若い接木を、あなたは二つに折ってしまった;
そしてこれまでずっと、何もしてくれなかった。
数え切れないほどお願いしたわ、優しくとりなしてと、
ほんのしばらくでいいから、母のもとに行かせてと。
何度もお願いしたわ、大粒の涙を流しながら、
最後にもう一度、母に別れを告げさせてと!
数え切れないほどお願いしたわ、跪いて;
でもあなたの堅い心の皮は、柔らかくならなかった!
どうか怒らないで、ヴォドニーク、わが主人よ!
あまり怒ってばかりいると、あなたの言う通りになってよ。
あなたが私を口のきけない、魚にしたいんなら;
いっそ石に変えて、記憶を持たない石に。
むしろ私を石にして、考えもせず感情もない石に;
そうすれば永遠に、ああ、太陽の光が奪われるけど!」
「妻よ、わしは喜んで、お前の言葉を信じたい;
だが広い海の中の一匹の魚・・それが誰に捕まえられよう?
わしはお前が母親に、会いに行く邪魔はしない;
だが当てにならぬは女の考え、それがとても心配なのだ!
さて・・お前に許しを与え、この深みから離してやろう;
だが言っておく、わしを裏切らず、言いつけを守るのだぞ。
腕に抱くでないぞ、母親も他の人間も;
さもないとお前の地上の愛は、下界の愛とすれ違ってしまう。
だれも抱くな、夜明けから夕暮れまで;
そして夕べの鐘の鳴る前に、また湖に戻って来るのだ。
朝の鐘から夕べの鐘まで、お前に暇を与えよう;
だが念のため、赤子は預かっておく」

(4)
どうして考えられよう、お陽さまのない初夏など?
どうして考えられよう、熱い抱擁のない再会など?
永いこと別れていた娘が、また母を腕に抱くとき、
ああ、誰に咎め立てできよう、可愛いい子を作ったとしても?
日がな一日、嬉し涙にくれる、母と湖から戻った娘;
「もう行かなくては、母さん、ああ、晩になるのが恐い!」・・
「心配ないよ、いとしい娘や、あんな殺人鬼など恐がらないで;
お前を渡すものか湖の化物の手に!」・・
夕べとなり・・緑一色の男が、中庭をうろつく;
扉には閂がかかり、母と娘は部屋の中。
「恐がらないで、いとしい娘や!乾いた地上では何の危険もない、
湖の殺人鬼も地上では、何の力も出せないのよ」・・
夕べの鐘が鳴り終ったとき、ドン、ドン!と、外で扉を叩く音;  
「家に帰れ、わが妻よ! まだ夕餉ができてないぞ」・・      
「うちの戸口から引き下がれ、このずる賢い殺人鬼め!
以前お前が食べてたように、湖で夕餉をとるがよい!」・・
真夜中にまたドン、ドン!と、ひび割れた扉を叩く音;
「もう戻ってこい、わが妻よ! わしの寝床をのべてくれ!」・・
「うちの戸口から引き下がれ、このずる賢い殺人鬼め!
前に床をのべてた者が、また寝床を作ってくれるさ!」・・
三たびまたドン、ドン!と、暁の光さし初そめるころ;
「さあ戻るのだ、わが妻よ! 赤子が泣いとる、何か飲ませろ!」・・
「ああ、母さん、苦しい・・坊やを思うと胸がはり裂ける!
母さん、大事な母さん、どうか私を帰らせて!」・・
「どこへも行くでない、娘よ!湖の殺人鬼は裏切を企んでる;
お前は坊やを心配してるが、お前のほうがもっと心配。
殺人鬼よ、湖に去れ、うちの娘はどこへもやらぬ;
赤子が泣いてるなら、ここへ連れてくるがいい」・・
湖では嵐が吹きすさび、嵐の中で赤子が泣いている;
その泣声は人の胸を突き刺す、だがふいに聞こえなくなった。     
「ああ、母さん、悲しい!あの泣声で血が凍りつく;
ああ、いとしい母さん、ヴォドニークが恐い!」・・
何かが落ちた・・扉の下に、液体が流れる・・血だらけの;
老母が扉を開けると、だれもが驚きで言葉を失う!
二つの物体が血海の中に・・恐ろしさで全身に悪寒が走る;
胴体のない赤子の頭と、頭のない小さな体。
(関根日出男訳)


東北ボヘミア・メトゥイェ河畔の「地獄のヴォドニーク像」
東北ボヘミア・メトゥイェ河畔の「地獄のヴォドニーク像」


※当会顧問の関根日出男先生よりヴォドニークに関して貴重な資料と共にご教示を受けましたので、加筆し画像を追加しました。(2013.4.16)

テーマ : クラシック
ジャンル : 音楽

ヤナーチェクの生前の姿を収めた貴重映像

ヤナーチェクの生前の姿を収めた貴重な動画がYouTube上に公開されている。7秒足らずの映像だが、うまく編集されているのでご覧いただきたい。愛想良く挨拶を交わしている白髪頭のずんぐりむっくりの老人がヤナーチェクである。エネルギッシュで、どこかせわしない動作が、いかにもこの作曲家らしい。なお、音楽は、カプリッチョ『挑戦』(1926)である。




この映像は、1925年5月にプラハで開催された国際現代音楽祭に出席した折の余暇中、知人とヴルタワ川を遊覧し南のズブラスラフへ向かった際に撮影された映像である。この時の写真はモラヴィア博物館が発行したヤナーチェク写真集成(Leoš Janáček ve fotografiích)にも掲載されている(no.94~ 97)。

以下、関根日出男先生が作成して下さったメモから転載する。

*******

ヴルタワ河を遡りZávistに向かう短い船旅。
Závist ザーヴィスト:有名なズブラスラフZbraslav修道院(現国立彫刻展示館)の対岸やや南の支流を上った所。紀元前5世紀、ケルト人の城塞跡Hradiště nad Závistiで、前2~1世紀頃に拡張され、ヨーロッパ最大の城塞の一つ(長さ9km,広さ157ha)となったが、ゲルマン・マルコマン族の侵攻で廃墟と化した。その後スラヴ人が住み着いた。

詩人のハーレクVítězslav Hálek(1835~74)は、しばしばここを訪れ「自然の中でV přírodě」(1872/ 74, ドヴォジャークの合唱曲op.63, B.126)などの詩作にふけった。しかし1874年9月20日クルコノシェ山地への帰り、ここに立ち寄ったが疲労激しく、10月8日に他界した。

praha_map



janacek1925


人物(左から)

①Viktor Mixailovich Belyajev(1888~1968)
ロシアの音楽学者。ウラル生、ペトログラード音楽院卒。革命後モスクワへ移住、音楽院で教え、現代音楽に傾倒。

②レオシュ・ヤナーチェク

③Wiktor Łabuński(1888~1968)
ポーランド系アメリカ人ピアニスト。ペテルブルク音楽院卒。クラクフ音楽院でピアノ科教授(1919/ 28)後渡米、各地音楽院で教える。

④ヴィリアム・フィグシュ=ビストリー Viliam Figuš- Bystrý(1875~1937)
バンスカー・ビストリツァ生、スロヴァキアの作曲家。バンスカー・シチャヴニツァの師範学校に学び(1889/93)、各地で教員をしながら民謡を収集。1914年ブダペスト音楽アカデミーで国家試験に合格。1921年から死ぬまで生地の師範学校や、ズヴォレンの音楽学校で教えていた。地元に合唱団を組織し、1922/24年作曲のオペラ「Detvanヂェトヴァ人」は、1928年4月1日ネドバル指揮スロヴァキア国立劇場で上演された。マルチヌーは「スロヴァキア民謡による変奏曲」H.126, 1920年作の主題を、ビストリー収集の民謡集に求めた。

⑤マリエ・カルマ・ヴェセラー Marie Camila-Veselá(1883~1966)
ソプラノ歌手、ヴェセリー医師の後妻、『イェヌーファ』プラハ初演の功労者。

⑥エルンスト・クロッソン Ernest Closson(1870~1950)
ベルギーの音楽学者。ブリュッセル音楽院付属楽器博物館長、同音楽院音楽史教授(1912/ 35)。著書多し。


撮影者:
ヤン・ミコタ Jan Mikota(1903~78):1924, 25年プラハでの国際現代音楽祭の事務局長。
ヤナーチェクのヴェネツィア、イギリス旅行に通訳として同行。


第3回国際現代音楽祭(開催地プラハ)1925年5月
15日:
R・カレル:交響詩「デーモン」、ブゾーニ:「セレナーデ」、トッホ:「室内オーケストラのための5小品』、マニュエル:「舞踏のテンポで」、リェティ:バレエ「ノアの方舟」、カミンスキ:「コンチェルト・グロッソ」

17日:
マルチヌー:「ハーフ・タイム」、ピクス:「パルティータ」、コザ:「オーケストラのための6楽章」、レッチ:「ピアノ協奏曲」、ヴォーン=ウィリアムス:「田園交響曲」

19日:
V・ノヴァーク:交響詩「トマンと森の精」、クシェネック:「コンチェルト・グロッソ」、マリピェロ:「主題のない変奏曲」、ミヨー:組曲「プロテエ」、バルトーク:「舞踊組曲」

これと並行して作曲者臨席の『利口な女狐』(5月18日プラハND、オストルチル指揮)と、『ヴォツェック』抜粋が上演された。

*******

注目すべきは⑤のカルマ・ヴェセラーであろう。彼女はプラハ国民劇場の音楽監督カレル・コヴァジョヴィッツの弟子であり、自作を酷評された恨みから『イェヌーファ』のプラハ初演を頑強に拒んでいたコヴァジョヴィッツに対し、夫のフランティシェク・ヴェセリーと共に粘り強く上演を説得した。彼女自身、1度だけプラハ国民劇場でイェヌーファを歌っている。

テーマ : クラシック
ジャンル : 音楽

グラインドボーン音楽祭の『利口な女狐』

先月から今月にかけて英国グラインドボーン音楽祭でヤナーチェクの『利口な女狐の物語』が上演され、話題を呼んでいる。

グラインドボーン音楽祭
ヤナーチェク:歌劇『利口な女狐の物語』


20 May - 28 June 2012

指揮 Vladimir Jurowski ヴラディミール・ユロフスキ
London Philharmonic Orchestra ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
演出 Melly Still メリ・スティル
装置 Tom Pye トム・ライ

森番 Sergei Leiferkus セルゲイ・レイフェルクス 
ビストロウシュカ Lucy Crowe ルーシー・クロウ
ズラトフシュビテーク Emma Bell エンマ・ベル
牧師/ 穴熊 Mischa Schelomianski ミーシャ・シェロミャンスキ
ハラシュタ William Dazeley ウィリアム・デイズリー
森番の妻/ 梟 Jean Rigby  ジーン・リグビー
校長先生/ 蚊 Adrian Thompson エイドリアン・トンプソン
パーセク Colin Judson コリン・ジャドソン
パーセクの妻 Sarah Pring サラ・プリング



この上演の模様は今月22日までオンデマンドでネット配信を視聴できる。

第1幕
http://www.guardian.co.uk/music/video/2012/jun/11/the-cunning-little-vixen-video

第2幕、第3幕
http://www.guardian.co.uk/music/video/2012/jun/11/the-cunning-little-vixen-video-act-2

※第2幕までと記されているが、第3幕まで全曲観られる。なお冒頭にはグラインドボーンの舞台裏を紹介したビデオが挿入されている。

これは演奏・演出共に充実した上演だ。
メリ・スティルの演出は、基本的にチェスノフリーデクの原作に忠実なもので、ドイツ人が好むようなモダンな解釈や、フランス人が好むような洒落たセンスがあるわけではない。しかし、シェークスピアとピーターラビットを生んだ英国らしい内容で、田園色がありながらもポップな美術が楽しく、人々の衣装も原作に忠実で、細かいところに無理のない演劇的な工夫があった。1幕のドタバタはやや悪乗り気味のところもあったが、2幕以降は特に良かった。

舞台中央には、大きな「生命の樹」があり、それを中心に物語は展開する。そこに森番がもたれて居眠りし、穴熊が住み、校長先生と神父は独白し、狐たちは愛を語り、女狐は撃たれて死ぬ。そして最後は少々意外なオチか。

1幕の間奏では子狐を奪われた母狐による嘆きのバレエで表され、3幕の校長先生がしょげているパーセク亭の場では、ハラシタとテリンカの結婚式が挿入されるが、これもユニークなアイディアだろう。

歌手も、女狐のルーシー・クロウ、森番のセルゲイ・レイフェルクス(※インタヴューで「42年間舞台に立っているが、こんな難しい音楽は初めてだ」と述べている。)をはじめ皆、秀逸だった。気鋭の指揮者、ヴラディミール・ユロフスキは、ドラマの展開に沿って、ヤナーチェクの個性的なオーケストレーションを巧みに鳴らして細部をくすぐりながらも、持続する呼吸には膨らみがあり、演劇的な効果を上げていて感心した。こうして聴いてみると、この曲の独特な響きには動物の声を模したところがところどころある。例えば、2幕で女狐が雄狐にツグミの噂に注意と歌うところや、ラストのキツツキなど。

これはおそらくDVDになるだろう。是非御覧いただきたい。

テーマ : クラシック
ジャンル : 音楽

ブロートによるヤナーチェクの死亡記事

brod

チェコ出身のユダヤ系作家、マックス・ブロートによるヤナーチェクの死亡記事が楽譜出版社ウニフェルザル・エディツィオン(Universal Edition)のページに掲載されたので訳してみた。原文は1928年にMusikblatter des Anbruch(「夜明けの楽譜」誌)に掲載されたものである。

ブロートは、ヤナーチェクのオペラの台本をチェコ語から独語に翻訳し、この作曲家の国際的評価に貢献した。カフカの親しい友人で、カフカから未発表原稿を託され、彼の死後、その遺志に反して公開したことでも知られる。シンフォニエッタがブームになるのも、カフカの主要な作品が読めるのも、ブロートのおかげとも言える。

以下は英語からの重訳で、文学的で訳しにくいところは適当に意訳している。最後には『利口な女狐の物語』のラストシーンから森番の台詞が引用されているため、ブロートの文章ではなく当会の訳によった。

***

ヤナーチェクが亡くなった。偉大な作曲家は74才だったが、創作力は絶頂にあった。彼は弦楽四重奏曲 「ないしょの手紙」と歌劇『死者の家から』(彼自身が書いた台本はドストエフスキーの小説に基づいている)を書き終えたばかりだった。

最晩年の彼は驚くほど多作で、健康状態は良好だった。知人は、彼が白い夏服を着て、快活、壮健にブルノを闊歩する様子を見かけていた。彼の故郷フクワルディでかかった病は、彼を突然に不意討ちしたに違いない。彼の活力、生への欲望は、近頃益々高まっており(彼は魂にあらゆる優しさを備えた、常に純粋な人だった)、私がそれに驚嘆するすぐ前に発現したのだった。私は彼に『マクロプロスの秘事』についていくつかの修正を助言をした。私は、ヒロインが「今、私は死を感じるようになった。 でも、全然怖くなかった」というべきと意見した。ヤナーチェクは私に噛み付いた。「無理だ。そんな作曲はできない。死が全然怖くないだって?」。散々議論した後、私たちは次のように合意した。「でも、そんなに怖くはなかった」

巨匠の並外れた創作は遅くにはじまった。これは彼の困難な青年期と、彼の芸術的価値の芽に立ち塞がる比類のない妨害のためだった。ヤナーチェクの最初のオペラ、『シャールカ』は、台本作家のゼイエルがヤナーチェクに許可することを拒んだため演奏されなかった。ヤナーチェクの第二のオペラ『イェヌーファ』、この最も情熱的で優しい旋律、その作りものでない真実味があり、率直で、全く型にはまらない旋律に対する比類なき努力は、歌劇場が切望すべきものにもかかわらず、めったに得難いものだった。にもかかわらず、ヤナーチェクはチェコ(※訳注:イェヌーファのプラハ初演時はチェコスロヴァキア建国前。英訳のミス)の主要な歌劇場であるプラハ国民劇場で演奏されるのを62歳になるまで待たなければならなかった。それまで彼はブルノに住んでいたが、その12年前にその地の劇場で初演されて以来、実際には観ることができなかった。全く新しい手法を用いてベズルチの詩に作曲した男声合唱曲(※3部作『ハルファル先生』、『マリチカ・ マグドーノヴァ』、『7万』)のみがいくらかの評判を呼んだにすぎない。これらの合唱曲は、今日でもドイツ語圏の国々で驚き混じりの評判を呼んでいる。ヤナーチェクの世界的な名声は、ベルリンでシリングスがエーリッヒ・クライバーの指揮の下、『イェヌーファ』の印象的なプロダクションを始めたときから不動のものとなった。

海外公演が大成功し、ヤナーチェクが70歳の誕生日を迎えるまで、チェコ国内の多くの批評家の意見は、反対か完全な黙殺だった。彼らの見解は何十年もヤナーチェクの生活を不快なものにし、小さな派閥の認識は小競り合いの種になった。ヤナーチェクの『イェヌーファ』が最初にドイツ語公演されたのは戦時中(※第一次世界大戦)のウィーンのことで、ベルリンでの勝利の数年前だったが、十分な印象は与えられなかった。しかし、いまや『イェヌーファ』は、50あまりの大中規模の劇場のレパートリーとなった。ニューヨークでも上演され、ロンドンではヤナーチェク音楽祭(オペラ上演はなかった)が開催された。国際音楽祭が彼の作品を演目に取り上げ、彼の晩年のオーケストラ作品の一つである『シンフォニエッタ』の演奏が準備されている。これはクレンペラーがベルリンでヤナーチェクの音楽を演奏し大成功を収めた後、2度目の外国演奏旅行で取り上げるものだ。

私は『イェヌーファ』がプラハでチェコ語上演されたことについてヴェルトビューネ誌(その時はまだシャウビューネと呼ばれていた)に熱烈な記事を書いた数カ月後(これがドイツ語の新聞が彼について言及した最初だった)、ヤナーチェクと会った。ハンサムな年配の男が私のアパートの部屋に朝早く着いたのだ。私は彼とは面識がなかったが、その気高く、穏やかながら力強く、目立った風貌に感銘を受けた。彼は言った。「いまや君は私を国外で有名にしてくれたのだから、私の作品を翻訳しなければならない。」

我々は友人となり、それは芸術上のことに留まらなかった。私はヤナーチェクと共に働き、テキストを整えた。それには手強い作曲家がいつも容易に応じたわけではなかったが、常に想像力に火をつける体験だった。

私が最後にブルノの彼を訪ねた時、彼は作曲中だった『死者の家から』のスコアを見せてくれた。ヤナーチェクのスコアは他に類を見ないものだ。彼は五線譜を使わないのだ。「このような譜線は皆、私に音符を多く書かせすぎるのだ」と彼は説明した。彼はまっさらの紙に譜線を描き、例えばまずバスーンが演奏する音符の玉だけ描き、そして1センチの音符の旗を書いていく。シートの残りの部分にはファゴットが奏する残りの部分のための譜線がない。ある楽器が実際に演奏している部分の楽譜しかなく、このようにして "繋ぎとなる声部"のメカニズムを排除する。非常に無駄なく透徹したオーケストレーションは、このような方法で書き留めることによっているのだ。ヤナーチェクの楽譜は洗練されたモザイク作品に似ている。

『死者の家から』手稿譜
※『死者の家から』の手稿譜


彼の人生と芸術ほど真似しようがないものはない。ヤナーチェクが亡くなった時、きわめて稀有な人が逝ったと思った。悪魔がいるのかと信じるほどだ。彼は何を為し、何を為さなかったのか。彼自身の個性以外、いかなる法も彼を支配しなかった。彼の音楽が彼のイデオロギーだった。それらは、もし魅了されないなら、全く近づきがたいものだ。もちろん、それらは彼自身の法で美しい海原へ誘いこみ魔法をかけて魅了する。そこに、ぐずぐず慎重にアプローチすることなど絶対的に禁じられ、不可能なのだ。

同じことは、比類なき『イェヌーファ』に続く美しい創造物である『利口な女狐の物語』にも当てはまる。私はしばしば台本が奇妙で上演困難に聴こえた。なぜなら登場する動物たちは動物らしく演じる必要があり、音楽は馴染みにくく、演奏しにくいからだ。だが、ああ、これらはなんと愚かな反対意見だろう。これは森自体が舞台の中心にある。このドラマは唯一の主役により作られている。それは荒々しい自然自体だ。だが、それに対する反応は旧来の体験に基づいた小うるさい批評ばかりである。

この途轍もなく大胆な冒険を取り上げよう。下草や虫たちの鳴き声、太陽やゲロゲロ鳴くカエル、夜行性の動物たちの乱痴気騒ぎ、偉大なるクヌート・ハムスン(※ノルウェーの小説家。『土の恵み』でノーベル受賞)のような屋外の結婚式。このようなものから陶酔的な力を与える。そして、ひと押しで、全体のプロットは明らかに開放的になる。森番(この作品で変わらずに登場する人物)はいつも何かに憧れている者だが、これは自然への憧憬だろうか?彼は家と家族を持っているが、森は彼に手招きする。そこで彼は野生のジプシーの少女と恋に落ちるように自由を見出し、彼自身の愛らしい小狐を捕まえるのだ。

どちらの襲撃も(※1幕の初めに女狐を捕えることも、終幕で捕えようとすることも)彼の狩人魂にとっては同一のものだ。そんなに解釈は要らない。そして、それはどんな憧憬とも同様に、彼には苦いうちに終る。ジプシーの娘は野営を引き払い、放浪者とともに消えていく。狐は逃げると射殺されるが、彼女を撃ったのは、森番ではなく、彼から娘(※テリンカ)を奪ったのと同じ放浪者(※ハラシタ)だ。しかし、永遠に憧れる人の心は、森の生命に永遠性に安らぎを見出し傷つくことはない。

ブルノ劇場の音楽監督であるフランティシェク・ノイマン(※ヴァーツラフは英訳のミス)には、真に共感に満ちた素晴らしいアイデアがあった。ヤナーチェクの葬儀で『利口な女狐の物語』から最後の歌唱(※森番の歌唱。chorusは英訳のミス)を演奏したのだ。これは、死すべき人間が永遠の高みへと上昇し、生命の永遠の賛歌として無比のうねりをもって作曲したものだ。なんというレクイエムだろう。音が劇場からロビーまで吹き抜けると、巻き起こった拍手が、死者が横たわるブロンズの棺を洗った。この作曲者が、このような音楽を二度と聴くことがないとは信じられなかった(少なくとも肉体があるうちは)。その音楽は、その実に真理と奥深さを備え、親しみ易いが、その親しみ易さをから飛躍するかのような崇高さがあった。

花輪やリボン、棺台、儀仗兵、会葬者、ろうそくの光を目にし、オーケストラとソリストが次のように奏するのを聴いて、誰しも生と死が表裏一体なのを心に留めただろう。

”でもいいさ,夕闇が迫り落日が最後の光を放つ時・・・
森の美しさを何にたとえよう!
森の精たちがまた夏の住処に戻ってきて,
薄い衣をまとって走ってくると,
五月と愛がまた彼女らのもとにやってくる!
互いに相手を迎えながら,再会の喜びにむせぶ!
また甘い露にのせて幸せを運ぶ,百千(ももち)の花,
サクラソウ,レニンソウ,アネモネの花の中に,
そして人は頭を垂れて歩み
超自然の至福がかたわらを過ぎて行くのがわかる。”



※ヤナーチェクの葬儀では『利口な女狐の物語』の最後のシーンが演奏された。

これは天才が自らに贈った追悼の辞だ。requiem aeternam(永遠の安息を)は、同様にaeternam vitam(永遠の生命を)でもある。


※余談。マックス・ブロートは、玄人はだしのアマチュア・ピアニストで、友人のアマチュア・ヴァイオニストとデュオを楽しんでいた。その友人とはアルベルト・アインシュタイン。アインシュタインは、1910年から2年間、プラハ大学の教授だった。

テーマ : クラシック
ジャンル : 音楽

プロフィール

Pilsner

Author:Pilsner
発話旋律 "Speech Melody"
日本ヤナーチェク友の会公式サイト管理人Pilsnerのブログ
チェコ音楽を中心にした音楽雑記帳です。
The blog by the chief manager of Janáček Association Japan
http://twitter.com/#!/janacekjapan

カレンダー
03 | 2017/04 | 05
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 - - - - - -
最新記事
カテゴリ
全記事表示リンク

全ての記事を表示する

Visitors
月別アーカイブ
検索フォーム
リンク
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。